金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第9話

伝土佐光元筆 源氏物語図屏風

諸家兼学の町絵師作か

岡山大学文学部助教授・伊藤大輔

 源氏物語の絵画化は古く平安時代から行われ、現在に至るまでなお、この物語は造形作家たちにインスピレーションを与え続けている。それゆえ源氏物語を主題にした絵画作品も古来数多あるが、金刀比羅宮の源氏物語図屏風は、これまで世に紹介されることがなかった新出作品と言って良い。

 本作の伝称作者、土佐光元(とさみつもと)(一五三〇ごろ~一五六九年)は、室町末期、宮廷の絵所預(えどころあずかり)を世襲していた土佐家の嫡男であったが、世は戦国時代に入り、彼も絵師としてのみ生きることは許されなかった。所領維持のためもあってか、永禄十二(一五六九)年八月、光元は木下藤吉郎の但馬攻めに加わり、不幸にも戦死を遂げる。絵師としては特異な人生を歩んだ人物である。

伝土佐光元筆 源氏物語図屏風(各166.0×364.0センチ)
伝土佐光元筆 源氏物語図屏風(各166.0×364.0センチ)

 六曲一双の両隻にわたって、中央に厚い金雲が横たわり、画面を下辺の近景と上辺の遠景に分割する。さらに各隻の近景では、中央に巨大な樹木を描き、この樹木を境にほぼ左右等分に二場面を配置する。遠景には各々一場面が描かれるので、各隻に三場面、計六場面が描かれる。右隻近景の右半には第一帖「桐壺(きりつぼ)」から、光源氏の元服の場、左半には第七帖「紅葉賀(もみじのが)」から源氏と頭中将の青海波(せいがいは)の舞の場、右隻上半の遠景には第十二帖「須磨」から、須磨にわび住まいする源氏の姿を描く。

 左隻近景右半には第二十四帖「胡蝶(こちょう)」から船楽の様子と蝶の装束を着た花の使者の姿、左半には第十七帖「絵合(えあわせ)」から、冷泉帝御前での絵合の場、左隻上半の遠景には第十四帖「澪標(みおつくし)」より、難波で明石の君の舟に邂逅(かいこう)し、明石の君への歌を口ずさむ源氏に惟光が筆と硯を差し出す場が描かれている。

 場面選択は、一見まとまりがないが、画家は対称性を重視した明確な構成意識をもって描いている。すなわち、近景はいずれも京都の宮廷社会における晴れの行事であり、一方遠景は京を離れた地での源氏の姿を描く。さらに近景は右隻の左半と左隻の右半、つまり両隻並べた場合、内側に来る部分を水景でつなぎ、庭前での楽と舞という共通する場面を配置。逆に両翼に来る部分では、ともに宮中の殿舎内での行事を描き、共通する主題性を持つ場面を左右対称の位置に描くという明快な構成意識を見せている。

 「須磨」「澪標」の場面を遠景に連続させる構成法や、これらの場面における人物の図像は、狩野探幽筆「源氏物語図屏風」(宮内庁三の丸尚蔵館)との密接な関連性をうかがわせ、基本的には江戸初期の狩野派に連なる画家が描いたと考えて良いのではないか。

 また左隻中央に堂々と伸びる松樹の表現は、土佐派作品には通常見出しがたい豪放な墨使いであり、桃山の狩野派の感覚を残していると言える。しかし人物の表現、特に顔の描き方などには、狩野派独特の癖がはっきりとはうかがわれず、むしろ土佐派風のものが多く見られ、これが光元の伝称を導いたと想像できる。

 これら諸要素の混交はなお問題として残るが、現在の暫定的な結論として、十七世紀の、狩野派を中心に諸家兼学した創造性豊かな町絵師の作と想定しておきたい。

(2003年6月1日掲載)

◆狩野探幽(かのう・たんゆう、1602~74年)  桃山時代から江戸時代へと転換する中で、徳川幕府の御用絵師となり、江戸時代の狩野派隆盛の基礎を築いた画家。水墨のみでなく、やまと絵や写生画など幅広い技法を学んで、余白の多い瀟洒(しょうしゃ)淡白な画風を打ち立て、しみじみと情緒に訴えかける新たな美の規範を創出した。

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