金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第67話(最終話)

こんぴらさんと私

見えぬ糸で続く"ご縁"

金刀比羅宮氏子総代・責任役員・塩田尚文

昭和46年9月の遷座祭
昭和46年9月の遷座祭

 前回の遷座祭が終わって間もない昭和五十(一九七五)年、金刀比羅宮の氏子総代・責任役員をいまは亡き久保井信夫先生から引き継いで、ことしで二十九年になる。

 思えば、物心ついた三歳の時、例大祭に頭人として父の膝に抱かれて奉仕したのが、"こんぴらさん"と私のご縁の始まり。榎井から馬に乗り、自宅前の古い門の前で母が見送ってくれたこと、本殿に座っていたこと、鞘橋の上を馬に乗って渡ったこと…。断片的だが、こんな三つの場面を記憶している。

 しかし、子ども心にも「これは単なる遊びや旅行気分といったものではなく、何か特別なこと、非常に神聖で緊張した、大切なことをしているんだ」という気持ちが心に深く残っており、八十年近くを経たいまでも誇らしい思い出の一コマだ。

昭和43年の例大祭時に建てられた祝舎
昭和43年の例大祭時に建てられた祝舎

 例大祭の時、神様を導き、大祭を司るといわれる頭人は、かつて琴平近在の四つの地区(四条、五条、榎井、苗田)から交代で選ばれていたが、いまでは希望すれば誰でも奉仕することができる。大祭の一カ月前になるとお旅所に祝舎(いわいや)という建物が建てられ、頭人はここで一カ月間、おこもりをして身を清め、大祭に臨んでいたが、現在、この風習はなくなった。

烏帽子・狩衣姿の男頭人を先頭に町内を歩く頭人行列(資料)
烏帽子・狩衣姿の男頭人を先頭に町内を歩く頭人行列(資料)

 ただ、琴平の親たちは「頭人になって"こんぴらの大神様"に奉仕すれば、一生、大神様がわが子を守ってくださる」と信じてきたのも事実で、頭人の伝統は絶えることなく、いまも続いている。

 金刀比羅宮に「頭人奉仕者名簿」という記録がある。そこには何と慶長八(一六〇三)年から毎年、奉仕した頭人の名が記されている。平成十五(二〇〇三)年までの四百年間に、実に九百三十人余りの名が記録されており、この伝統の並々ならぬことを痛感した。

 平成の時代になり、頭人として奉仕した人たちに一年に一度、集まってもらってはどうか、という話が持ち上がった。私も発起人の一人として、平成八年に「こんぴら頭人会」を立ち上げ、子どもたちが集まりやすい夏休みを利用し、奉仕者たちの親睦会を開いている。すでに八回。最年長参加は私で、毎年四十人くらいの"元頭人たち"が近況を報告し合っている。奉仕は一期一会、一生で一度きりだが、ずっと見えない糸で"こんぴらさん"とつながっていることを感じさせてくれる催しだ。

平成の時代になって年に一度開かれている「こんぴら頭人会」(塩田尚文さん提供)
平成の時代になって年に一度開かれている「こんぴら頭人会」(塩田尚文さん提供)

 さて、「金刀比羅宮 美の世界」も今回で最終回。私の崇拝する"こんぴらさん"には、こんなにもたくさんの美術品があったのか、また、こんなにも第一線の学者のみなさんや多くの人たちの関心を集めていたのか、とあらためて認識することができた。

 円山応挙や伊藤若冲、岸岱、高橋由一ら、名だたる名手たちの絵画や襖絵、それに全国津々浦々から寄進された灯籠や玉垣など、庶民信仰の貴重な史料とも言うべき文化遺産が集まり、現在に伝わっている。

 二十一世紀は心の世紀。信仰と文化を"こんぴらさん"で感じ、心の充実感を味わっていただければと思っている。

(2004年7月25日掲載)

金刀比羅宮氏子総代・責任役員 塩田尚文氏

しおた・まさふみ 1923年琴平町生まれ。43年9月、東京歯科医専卒。同年11月、従軍。44年12月、東京陸軍軍医学校入校。終戦・復員後の45年11月、琴平町内で歯科医院を開業。琴平小、仲南東小、仲南東幼稚園学校医。琴平ロータリークラブ会員。75年から金刀比羅宮氏子総代・責任役員を務める。

■「金刀比羅宮 美の世界」は、今回で終了します。長い間、ご愛読ありがとうございました。

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