金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第65話

平賀源内と金比羅参拝の浪花俳人

盛んだった讃岐の俳諧

愛媛大学教育学部助教授・福田安典

平賀源内肖像(木村黙老著『戯作者考補遺』より、慶応義塾図書館)
平賀源内肖像(木村黙老著『戯作者考補遺』より、慶応義塾図書館)

 とはにみとり深き讃の高松を
 去る事、里数八にして西の方
 に象頭山あり。彼山に金比羅
 尊神たゝせ給ふ。神威いとも
 かしこし。

 という序文で始まる俳書『象山陰(きさやまかげ)』(寛延元=一七四八年)には、まだ江戸へ行く前に志度で俳諧に熱中していた平賀源内(一七二八―八〇)の青春の姿が記されている。讃岐には、俳諧の伝説的な人物である山崎宗鑑(―一五四〇)の一夜庵伝説があり、大坂の談林派の領袖たる西山宗因(一六〇五―八二)が来讃した。

源内が李山の号で詠んだ「囀りや花の余りを只の園」の部分
源内が李山の号で詠んだ「囀りや花の余りを只の園」の部分

 そのために、浪花の有名な談林派俳人が次々と訪問。後には与謝蕪村(一七一六―八三)あたりも来讃するのだが、高松を中心に讃岐では談林派俳諧が盛んであった。

 この『象山陰』も浪花俳人の堀梅門が金比羅参詣のために来讃したのを機に編まれたもので、その序文は当時、高松の談林派のリーダーと目される山本古道が記し、タイトルは金比羅の神のおかげであることをかけたという。讃岐の「道に遊ぶ人々」の贈答の句を編集したものである。

『象山陰』(乾・坤、稲本梅門著)
『象山陰』(乾・坤、稲本梅門著)

 源内とこの山本古道との関係は浅からぬものであり、当然、源内(俳号、李山)もこの騒ぎには参加し、梅門を囲んで志度の俳人たちとともに俳筵(はいえん)を興行している。さらには親交の深い渡辺桃源とともに梅門の旅宿を訪ねている。その折の作として

 囀(さえずり)りや花の余りを只の園

源内周辺の文士たち
源内周辺の文士たち

 という句が『象山陰』に収められている。「浪花の俳人が讃岐に来た。是非とも会いたい」と思いつくやいなや、その旅宿を訪れるというのはいかにも源内さんらしい。しかし、「只の園」など、すこし耳慣れない言葉を用いながらもやや生硬でオーソドックスなこの句からは、源内青年の緊張と昴揚を読みとることができないだろうか。

 皮肉なことに、この後、両者の名声は逆転した。いま、平賀源内の名は知っていても、若き源内さんがわざわざ足を運んだ堀梅門の名を知る人は幾人いようか。この後にかの与謝蕪村が来讃し、源内周辺の俳人とも交渉を持つのだが、その時、源内は秩父で奮闘中。故郷での俳事などどこ吹く風で、たとえ蕪村が来讃することを知っていたとしても、そのために一時帰郷することはなかったに違いない。

 しかしながら、もし源内が江戸に行かず、志度で俳諧に精進していたなら、源内は必ず蕪村の旅宿を訪問し、ともに時代を代表する鬼才、すっかり意気投合して二人仲良く金比羅さんに詣でるという愉快な光景があったのかもしれない。

(2004年7月11日掲載)

ふくだ・やすのり 1962年大阪生まれ。大阪大学文学部卒業後、同大学院文学研究科修了。同大助手、甲子園短大専任講師を経て、98年から現職。96年、『享保三年京の一夜』で第22回日本古典文学会賞。著書に『驚きのえひめ古典史』、共著に『都賀庭鐘・伊丹椿園集』、編集に『新平賀源内全集』(近く発刊予定)。専攻は近世日本文学。

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