金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第64話

金毘羅山と平賀源内
~高松藩お抱え博物学者の時代~

薬草調査に足跡を残す

県歴史博物館専門職員・藤田彰一

『物類品※』(県歴史博物館所蔵)
『物類品※』(県歴史博物館所蔵)
『物類品※(爬虫類)』
『物類品※(爬虫類)』

 平賀源内(一七二八―八〇)は十八世紀半ば、江戸時代中期の日本において、多分野で才能を発揮し、時代を先取りするユニークな活動を展開した人物として知られる。その源内が、主として薬用植物の調査採集のために、金毘羅山(象頭山)を訪れたことがある。宝暦十年(一七六〇)の秋のころである。

 少しさかのぼれば、高松藩志度浦の蔵番を辞し、家督も譲って江戸へ出た源内は、本草学者田村元雄の門に入り、実証的な本草学を学びながら、師に薬品会(同好同学の人々がさまざまな産物を一堂に集め、品評し合う小規模な博覧会で物産会ともいう)の開催を勧め、主催するようにもなっていた。

 江戸での博物学的活躍が知られるようになると、同様に博物学を愛好する高松藩五代藩主松平頼恭(よりたか)の目に留まり、宝暦九年(一七五九)九月、再度高松藩に召し抱えられた。お抱え博物学者となった源内の公務は藩主頼恭の命に従って、動植物・鉱物の調査や分類、同定、藩邸薬園等での品種研究などであった。

 宝暦十年の源内は、四月から八月にかけて貝類の採集のため、相模や紀州の海岸を巡り、分類の拠り所となる「五百介図」の写本を大坂でようやく得て、標本と共に国元の藩主に提出した。

 そして九月からは、高松藩領内の採薬調査を行うという過密なスケジュールをこなしている。この領内調査の途上に、金毘羅領の社叢にも足を伸ばした。調査結果の一部が、源内の博物学上の主著『物類品※(ぶつるいひんしつ)』に紹介されている(別表の通り)。

「物類品※」に取り上げられた讃岐産の薬用植物
「物類品※」に取り上げられた讃岐産の薬用植物

 この中に金毘羅山にかかわるものが二種ある。釣藤と生薑(しょうが)(生姜)である。釣藤は次のように記されている。

釣藤(『衆芳画譜』第三薬木より、県指定有形文化財高松松平家博物図譜、県歴史博物館保管)
釣藤(『衆芳画譜』第三薬木より、県指定有形文化財高松松平家博物図譜、県歴史博物館保管)

 釣藤 和名カラスノカギツル、木ニ依テ蔓延ス、茎初メ方ニシテ後円ナリ、枝相対シテ出ヅ、葉ハ蝋梅ノ葉ニ似テ滑澤ニシテ、両両相対ス、葉ノ間ニ刺有リ、形鉤ノゴトシ、是ヲ釣藤鉤ト云、小児方中ニ用ウ、安芸・遠江ニ産ス、讃岐金毘羅山ニ産スルモノ幹ノ大サ径尺ニ近シ

カギカズラ(釣藤・鉤藤)。アカネ科の蔓性植物(馬場洽收さん提供)
カギカズラ(釣藤・鉤藤)。アカネ科の蔓性植物(馬場洽收さん提供)

 カラスノカギツルと呼ばれる蔓草で、枝の両側に対になって並ぶ葉の間に鉤状の刺があって、これが小児病の薬に用いる「釣藤鉤」(カギカズラ)であると説明し、金毘羅山中では、幹の径が一尺(約三十センチ)近くもあるものを見つけて驚いたのである。

 生姜は、「生薑 讃岐金毘羅産上品、形小ニシテ、味甚辛棘ニシテ、筋スクナシ」とあり、金毘羅産のものは特に上質と紹介されている。

 この採薬調査では、特筆すべき植物のほとんどが、現在の琴南町や塩江町域の自然が豊かに残る山間部で見られる。それとともに、金毘羅山で産するものがここに掲げられたことは、源内の生きた時代も、金毘羅山が手付かずの豊かな植物相を伝える、魅力に満ちた山であったことを物語っている。

 藩主頼恭は、精力的に生物のデータを集積した。この好奇心や情熱、源内の調査に基づく学識、絵師たちの技術の粋、三者のコラボレーションが、精緻で豪華な博物図譜に結実した。それが高松松平家に伝わる博物図譜の傑作、県指定有形文化財の『衆鱗図(しゅうりんず)』(魚類)、『衆禽画譜(しゅうきんがふ)』(鳥類)、『衆芳画譜(しゅうほうがふ)』や『写生画帖(しゃせいがじょう)』(植物)十三帖である。

 しかし、源内は翌宝暦十一年になると辞職を望むようになり、九月には「仕官御搆(しかんおかまい)」の条件付きでそれが認められ、藩という枠の中での博物学者の役目は、わずか二年で終わってしまう。

※はこざとへんに「歩」の下に「馬」

(2004年7月4日掲載)

◆平賀源内(ひらが・げんない) 享保13年高松藩志度浦に生まれ、安永8年江戸小伝馬町の獄中で52歳の生涯を終える。エレキテルで知られるが博物学者や鉱山開発者、洋風画の先駆者、劇作文学や浄瑠璃の人気作者としての側面も持つ。『物類品※』『衆芳画譜』などは、17日から県歴史博物館で開かれる「平賀源内展」で紹介される。

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