金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第63話

小山正太郎「北条時頼像」

西洋美術との違い鮮明

岡山大学文学部助教授・鐸木道剛

 金刀比羅宮には、高橋由一(一八二八―九四)の有名な油彩画のほかに、明治初期の油彩画家の作品として、フォンタネージ(一八一八―八二)、浅井忠(一八五六―一九〇七)、小山正太郎(一八五七―一九一六)の作品が所蔵されている。

 いずれも明治九(一八七六)年に東京・虎ノ門に設立された工部美術学校に関わる画家たちである。とくに工部美術学校で小山と最年少の松岡壽(一八六二―一九四四)はライバルであったようで、明治十一年のフォンタネージ先生の帰国送別会の記念写真でも、二人は先を争って先生の真後ろの場所を確保しており、押し合って写真に納まっている。

小山正太郎(新潟県立近代美術館提供)
小山正太郎(新潟県立近代美術館提供)

 小山はその後、明治十五年に欧化主義者として「書ハ美術ナラズ」の論を立て、初等教育における鉛筆画の教育を主張し、毛筆画を主張する岡倉天心(一八六二―一九一三)と対立したが、小山自身はこの絵にみるように、筆跡も鮮やかな墨絵と書を数多く残し、漢詩も作っている。しかし、そこに矛盾はない。小山は美術はあくまで外部再現であり、科学の一部であると考える西洋ルネサンス以来の伝統的な芸術観に立脚しており、個性の表現である東洋の書を西洋の伝統的な美術と同類とは考えなかった。そして伝統的な西洋の絵画観こそ我々にとって異質なものであり、学ぶべきであるとした。書が西洋的な「美術」のカテゴリーに入るか入らないかは、あくまで西洋側の問題であり、入らなくても書の価値は毫(ごう)も揺るがない。

小山正太郎「北条時頼像」(紙、彩色、明治40年、部分)
小山正太郎「北条時頼像」(紙、彩色、明治40年、部分)

 小山のこの墨絵は、金刀比羅宮の所蔵品台帳によると昭和十二(一九三七)年に購入されたもので、鎌倉幕府第五代執権北条時頼(一二二七―六三)を描く。時頼は若くして執権職を北条長時にゆずり、出家して最明寺入道となり、謡曲「鉢の木」の題材となった有名な勧善懲悪の諸国行脚の旅に出たとの廻国伝説のある名君である(『増鏡』第九巻「草枕」)。この肖像画は名君時頼を讃えたもので、小山が先楽山荘と名づけた別荘が時頼の立ち寄ったと伝えられる御宿(おんじゅく)町(千葉県夷隅(いすみ)郡)にあったことから、時頼を描いて、時頼の愛した「天地美観」の「清賞を」「分かたん」と、彼に語りかけている。ここに肖像は、単なる絵ではなく、時頼本人となっている。表象が存在を呼び出す。西洋の美術観との違いがここにもある。

工部美術学校でのフォンタネージ先生送別写真。フォンタネージ(中央)の真後ろが小山、向かって右が松岡(明治11年、部分、松戸市教育委員会所蔵)
工部美術学校でのフォンタネージ先生送別写真。フォンタネージ(中央)の真後ろが小山、向かって右が松岡(明治11年、部分、松戸市教育委員会所蔵)

 小山は生涯、師範学校に勤め、教育者としての自覚が強かった。工部美術学校入学前に陸軍士官学校の図画科に学んだせいもあってか、教育も軍隊式で、日清戦争に際しては画家として従軍し、明治二十八(一八九五)年に平壌の戦いのパノラマを制作するなど、戦争画を好むと記されることも多い。しかし明治十八、九年ごろに水彩画で描いた「本能寺討入」は、近代的な目でみた歴史画で、今の我々にも新鮮にみえる。

 また、彼は長岡藩の藩医の家に生まれ、同藩の家老であった河井継之助(一八二七―六八)と父小山良運は友人でもあり、その姿を戊辰戦争中に目にしている。尊王であったにも関わらず、国際法にのっとったがために新政府軍と戦い、犠牲となった河井を決して忘れず、小山は後に河井の姿を記憶の中で描いている。同じ長岡からは、後に山本五十六も出ている。

(2004年6月27日掲載)

すずき・みちたか 1950年大阪生まれ。74年東京大学文学部卒。76年ユーゴスラビア・ベオグラード大学留学。80年岡山大学助手、87年から助教授。主な著書に『イコン:ビザンチン世界からロシア・日本へ』(共著)、『名画への旅(4)』(同)、訳書に『レオの聖書:ギリシア語旧約聖書』など。専攻はビザンチン美術史。

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