金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第51話

景勝の創出と象頭山十二景図

素晴らしさ詩画に示す

県歴史博物館学芸員・松岡明子

狩野時信筆「象頭山十二景図のうち雲林洪鐘図」(金刀比羅宮所蔵) 画面上から本社(1659)、鐘楼(1620)、鳥居(1659)、二天門(1660年に改称)、多宝塔(1673)が描かれている。かっこ内は建立年
狩野時信筆「象頭山十二景図のうち雲林洪鐘図」(金刀比羅宮所蔵) 画面上から本社(1659)、鐘楼(1620)、鳥居(1659)、二天門(1660年に改称)、多宝塔(1673)が描かれている。かっこ内は建立年

 金刀比羅宮が鎮座する象頭山は、豊かな自然に恵まれ、四季折々に詩趣あふれる景色をみせる。その中でも特にすぐれた景色は、象頭山八景や十二景にまとめられ、江戸時代から詩歌や絵画の題材となってきた。

 ここで紹介する「象頭山十二景図」もそうして制作された作品の一つで、幕府奥絵師であった狩野安信(やすのぶ)(一六一三―八五)と時信(ときのぶ)(一六四二―七八)父子が、次にあげる景勝を六景ずつ描いた十二幅からなっている。

 <象頭山十二景>
 左右桜陣 後前竹囲 前池躍魚

 裏谷遊鹿 群嶺松雪 幽軒梅月

 雲林洪鐘 石淵新浴 箸洗清漣

 橋廊複道 五百長市 萬農曲水

 享保三年(一七一八)の記録によれば、本図は延宝年間(一六七三―八〇)に金光院別当の宥榮(ゆうえい)が象頭山の「十二勝区」を選んで林学士父子に詩作を依頼し、さらに狩野安信・時信の父子に図を描かせ、書で知られた伶官(楽人)上左兵衛(うえのさへえ)に命じて各図に林氏の詩を写させたものという。林学士父子とは、幕府儒官の林鵞峰(がほう)と息子の鳳岡(ほうこう)のことで、依頼を受けて林父子が寛文十一年(一六七一)にまとめた「讃州象頭山十二境」と題する詩巻が、現在も金刀比羅宮に所蔵されている。

狩野常眞筆「象頭山十二景図巻」(金刀比羅宮所蔵) 万治年間の作とされてきたが、多宝塔が描かれていることから、延宝元年以降に描かれたと考えられる
狩野常眞筆「象頭山十二景図巻」(金刀比羅宮所蔵) 万治年間の作とされてきたが、多宝塔が描かれていることから、延宝元年以降に描かれたと考えられる

 金刀比羅宮には高松藩初代御用絵師の狩野常眞(じようしん)が描いた象頭山十二景の画巻も伝来しているが、本図と見比べると画面形状の違いこそあれ、ほぼ同じ図が描かれていることがわかる。常眞は安信の門人であり、安信の取り次ぎもしたことなどを考えると、この画巻は象頭山を見たことがない安信たちの参考とするために描かれたものと推察される。

 本図の制作時期について考えてみたい。慶安元年(一六四八)に幕府朱印地となった金毘羅は、初代高松藩主松平頼重(よりしげ)の寄進などを受けて、万治二年(一六五九)の本社造営をはじめ、諸堂の移転改築を進めた。本図が描かれた延宝年間は、その後十年余りを経て、主要な建物の造営・改築がひととおり終わり、境内の様相が大きく変わった時期でもあった。その視点から十二幅中の雲林洪鐘図(うんりんこうしようず)をみると、本社、鐘楼、二天門などとともに延宝元年(一六七三)に完成した多宝塔も描かれており、諸堂が整えられた新たな境内の姿が意識的に描かれていることに気付くのである。

「象頭山全図」(県歴史博物館蔵) 本社や多宝塔が描かれた江戸時代後期の境内の様子。明治初年には、再び境内の姿が大きく変わることになる
「象頭山全図」(県歴史博物館蔵) 本社や多宝塔が描かれた江戸時代後期の境内の様子。明治初年には、再び境内の姿が大きく変わることになる

 自ら十二景を選び、新たな境内を含めながら、当代随一の学者と画家の「合作」による象頭山十二景図を作ろうとした宥榮のねらいはどこにあったのだろうか。中世以降、日本では水墨画の画題として浸透した瀟湘八景(しようしようはつけい)の影響を受けて、各地に近江八景や宮島八景などの景勝が成立した。これには受容された型にあてはめて景勝を選び、学者や文人たちが詩を詠むことでその素晴らしさを認識し、共有する意味があった。

 金刀比羅宮でも同様に景勝を創出し、詩画を制作することで、この地の素晴らしさをより根拠あるものとして表現しようとしたのではないだろうか。そう考えて本図を見ると、十二幅の中からまだまだ多くのことを読み取ることができそうである。

(2004年4月4日掲載)

まつおか・あきこ 1995年、県教委歴史博物館建設準備室。99年から現職。主な企画展に「徳川御三家展」(2000年)などがある。専攻は日本絵画史。

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