金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第46話

庶民的空間が広がる絵馬堂

博物館の原点がここに

海の博物館長・石原義剛

 「金毘羅ふねふね」を終戦前、わたしがまだ五、六歳のころから唄えたのは、明治十年生まれで、すでに六十歳半ばをすぎていた無趣味な父親が、たまに一合の酒に酔って機嫌よく唄うのを聞き覚えていたからだろう。もっとも大人になるまで意味も解らず、"金毘羅ふねふね、お池に帆掛けてしゅらしゅしゅしゅ"、と大真面目に唄っていたのだが。

 尋常小学校を出るとすぐ、矢立と水揚げ帳を五尺足らずの短躰の腰に挟んで魚市場へ出て、爺さんの手伝いをはじめたという父親は、網元の長男で根っからの漁業人であった。その後、漁業会社を興し、漁業組合を支え、漁業一筋の政治家として燃え尽くし、昭和四十八年、九十五歳で死んだ。

1993年に日本建築学会賞を受賞した海の博物館の外観
1993年に日本建築学会賞を受賞した海の博物館の外観

 その父親が晩年、漁業漁村のことを多くの人々に知ってもらおうと、漁業博物館を計画し、私産を投じて建てたのが、「海の博物館」(三重県鳥羽市浦村町)で、わたしが専任して、昭和四十六年に開館した。以降、漁業の展示の傍らもっぱら漁具や木造漁船など実物資料の収集に専念してきたが、昭和六十年に「伊勢湾、志摩半島、熊野灘の漁労用具」六千八百七十九点が国の重要有形民俗文化財に指定された。

 深いご縁というのであろう。文化財を永久保存する収蔵庫の建設をはじめたとき、紹介をうけたのが金毘羅さんであった。昭和五十四年に指定された重要有形民俗文化財「金毘羅庶民信仰資料」千七百二十五点の収蔵庫がほぼ完成しており、訪ねて見学させてもらった。

 その時から、わたしは金毘羅さんの隠れファンになった。なによりも全域が猥雑で庶民的でいい。時や時代ごと信心する人々に継ぎ足され修理された多様な石段や灯籠がいい。両側に並ぶ土産物屋や飲食店の賑わいがいい。伝統的な歌舞伎小屋と科学館が向かい合うのがいい。そして汗して登った石段上の本殿の穏やかさと讃岐平野の箱庭的な眺めがいい。どこまでも庶民の匂いがし、庶民の味があり、庶民の色がある。決して強いるものがない。海に臨んでいなくても、海の人間がこの神社を好きになるのはきっと、海民にいまも強く残るこの庶民性に相違ない。

数百年前から宇宙船の絵馬まで、航海の安全を祈願して奉納された絵馬が並ぶ金刀比羅宮の絵馬堂
数百年前から宇宙船の絵馬まで、航海の安全を祈願して奉納された絵馬が並ぶ金刀比羅宮の絵馬堂

 中でも、わたしがもっとも好きになったのが、"絵馬堂"。屋根と柱と上部の垂れ板で成り、壁や扉のない吹き抜けのお堂。そこがまた数百年前の古びた絵馬から、ピカピカの最先端な宇宙船の額まで、思いのままに掛かる開かれた展示室になっている。航海安全を祈る船乗り、大漁を感謝する漁民、彼らの表に出さずにおれぬ気持ちが形になった船模型や細工物の数々。参詣をすませた人々は、ここに時代の共感と歴史の親しみを覚える。金毘羅さんが守ってくれるのを実感することだろう。

木造で1000平方メートル近い展示室は現代的な絵馬堂をイメージして造った
木造で1000平方メートル近い展示室は現代的な絵馬堂をイメージして造った

 訪れる人々を楽しませ、親しませ、信頼へと企まぬ演出で導く。わたしが長年思って来た博物館の原点が金毘羅さんの隅々、そして全域につまっているのを感じた。

 絵馬堂の発想を、この時、海の博物館に拝借して、絵馬堂的大展示室を造った。開放的で庶民的な空間の雰囲気の中に、漁具漁法の実物を、見る人の手にふれるよう展示することとした。とてもかなわぬが、庶民信仰博物館としての金毘羅さんに少しでも近寄りたいとの願いからであった。

(2004年2月29日掲載)

海の博物館長・石原義剛氏

いしはら・よしかた 1937年三重県生まれ。早稲田大学文学部卒。69年、海の博物館建設準備を始める。71年に開館、館長代理。73年から現職。開館以来、海を守るSOS(SAVE OUR SEA、救え!われらの海を)運動を呼び掛けている。専攻は近代漁業史、漁村民俗。消えゆく木造和船と船大工技術の継承に力を注いでいる。

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