金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第4話

高橋由一筆「琴陵宥常像」

丹念な筆致に温かい目

東京芸大名誉教授・歌田眞介

 明治維新はすべての日本人に革命的な価値観の変更を求めた時代だった。尊皇攘夷を旗印に討幕した側も例外ではない。革命成立後、外国排斥の旗は降ろしたのである。大きく見れば、柔軟性のある社会構造だったといえるかも知れない。維新の社会変化に高橋由一も琴陵宥常も果敢に立ち向った。特に宗教界への圧力は大きく、宥常の苦労は並大抵のことではなかったと推察される。

 金刀比羅宮は江戸時代、金光院(こんこういん)金毘羅大権現と称した。広辞苑によれば「権現とは仏が化身して日本の神として現れること」で神仏が同体であるとする信仰である。平安時代から続く神仏混淆(こんこう)は、明治初年の神仏分離令で終わった。

琴陵宥常像(1881年、64.4×56.8センチ)
琴陵宥常像(1881年、64.4×56.8センチ)

 「金毘羅大権現が寺院でなく神社で立ってゆく方針が決まると、金光院最後の住職であった宥常(ゆうじよう)は琴陵宥常(ことおかひろつね)と改名、社務職に仰せつけられ、その方向に向けて果敢に改革を進めていった」。しかし「宮司に仰せつけられたいという願いは聞き届けられず、明治六年三月、鹿児島より深見速雄が宮司として赴任して来た。宥常が宮司に任命されたのは、明治十九年三月深見速雄が亡くなった翌四月である」(松原秀明氏『金毘羅信仰資料集』)。

 このような状況の中で宥常は、宮司を助けながら金刀比羅崇敬講社を立ち上げ、水難救済会を設立するなどその後の発展の基礎を築いた。

 高橋由一は幕末に蕃書調所(ばんしょしらべじょ)で洋画を学んだ。入所した時は既に三十五歳であった。蕃書調所は西洋の学問を研究教育する機関である。維新後は東京大学へと引き継がれたが洋画研究部門は消滅した。

 そこで、由一は明治五年に画塾天絵樓(てんかいろう)(後に天絵社、天絵学舎)を作り後進の指導に当たった。彼は洋画研究を通して常に社会に貢献したいと考えていた。美術館や美術学校の建設を提唱したり、宮中の油絵の保存や修復についても政府要人に働きかけている。

 さて、画塾拡張資金を必要とした由一は、人を介して宮司深見速雄を知り、明治十二年二月油絵三十五点を奉納し、資金二百円を受領した。売買でないところがゆかしい。翌月から始まった琴平山博覧会(三月一日~六月十五日)に出品、評判を呼んだ。ちなみに博覧会の入場者は二十六万人を超えたという。

 由一は明治十三年十二月から翌年一月十五日まで琴平に滞在、「琴平山遠望」「琴陵宥常像」などを描いた。後者は記録にはあったものの、これまで所在知れずの作品だった。平成十三年春、琴陵宮司宅で発見との報道が新聞、テレビなどで全国に流れたことは記憶に新しい。

 由一油絵の特色は、その質感表現(物の材質感の正確な描写)にあるといえよう。宥常像では、羽織りの紐(ひも)の編み目までもが分かるように描いてある。額の髪の生え際も極細の筆で丹念に描いているあたりに、由一のこだわりが見え、素朴な顔の描写の中にひと回り年下の宥常を温かく見守る彼の視線を感じることができる。

(2003年4月27日掲載)

発見された琴陵宥常像を鑑定する歌田教授
発見された琴陵宥常像を鑑定する歌田教授

うただ・しんすけ 1934年東京生まれ。東京芸大卒。同大油絵科、絵画組成研究室などを経て同大教授。高橋由一の技法の解明に長年取り組み、科学的調査を実施。2002年から早稲田大客員教授。編著に「高橋由一洋画の研究」「油絵を解剖する―修復から見た日本洋画史」など。専攻は洋画修復。

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