金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第38話

金毘羅信仰の源流(下)

神格化したクンピーラ

作家・フランス文学者 栗田勇

 海上からの(目)当て山となる聖地は、また裾野の農耕民たちの水源地、水くまり山として、山の聖地となり、そこには山嶽(さんがく)信仰が古代から育ってゆく。象頭山も山の信仰を姿を変えながら伝えてきた。

金刀比羅宮本宮から眺める讃岐平野
金刀比羅宮本宮から眺める讃岐平野

 先に話した古代東シナ海の海上生活者蛋民(たんみん)が、弥生文化の伝播とともに陸上農耕民として拡大してゆく。彼らは、時には海の難所で水先案内をかねたり、通行税をとったりもしたが、本業はお山の恵みを中心とする農耕民なので、自然発生的に修験道信仰や天狗信仰が生まれた。金毘羅道者が日本全国に広がり、四国の石鎚山修験道をはじめ、対岸の児島半島の修験とも交流する。

 また逆に、海と結びついた山の信仰として熊野修験が入ってくる。熊野には有名な那智の滝があるが、あの滝はじつは海上からはっきり見える「当て山」で、海上の目印となっている。水の神でもある那智の滝、十一面観音を祀る青岸渡寺(せいがんとじ)は、熊野修験のセンターである。

 こんぴらさんにも、天平時代ころの作とされる重文の十一面観音が残っている。天平仏は高松にもあり、後に讃岐の佐伯氏が出て、弘法大師信仰がやがて四国遍路となってゆくのも偶然ではない。

 象頭山は海抜六百十七メートルの大麻山の峰続きだが、原始の象頭山への信仰については記録もなく、推理するほかはないが、それでも神体山として『延喜式』神名帳にある雲気(くもげ)神社が、金刀比羅宮の原始社頭ではないかともいわれる。大麻山を日和山(ひよりやま)とみると、山にかかる雲形は天候予知の重要な手掛かりで、象頭山の一角の、雲気神社が古くから式内社とされたのもうなずける。

大物主神御影(菊池容斎筆、部分)
大物主神御影(菊池容斎筆、部分)

 さらに象頭山の金光院、松尾寺に守護神として勧進された金毘羅神と習合して、金毘羅大権現という神格が成り立ったとされる。現在は、神道説で金毘羅神の垂迹(すいじゃく)とされる豊穣神、大物主神(大国主神)が祭神である。金光院が松尾寺をはじめ、五院を誇る真言密教の大寺院に成長するとともに、金毘羅信仰の中心となって、中世以降盛大になり、室町から江戸にかけての隆盛は凄まじいばかりとなった。

 特記すべきは保元の乱で讃岐へ流された崇徳上皇が一一六三年にここに参籠され、崇徳上皇の崩御後、翌一一六五年にこの地に奉祀された。ここに、御霊(みたま)信仰、つまり生前不遇だった荒御霊(あらみたま)が和御霊(にぎみたま)として鎮まって、時に自然現象の霊威を振るい、修験信仰の大きな畏怖の源ともなっている。

崇徳天皇御影(菊池容斎筆、部分)
崇徳天皇御影(菊池容斎筆、部分)

 さて「こんぴら」=金毘羅は梵語クンピーラ(Kumbhra)の音写である。鼻の長い鰐が神格化された仏教の守護神、起源は「金羅摩竭魚夜叉大将」といわれ、水にかかわる夜叉であり、その本体は蛇神ともいわれる。本地垂迹の思想で金毘羅大権現が風の神、また水源や降雨の神、水難救助の竜神信仰としても、古来あがめられる由縁である。その複合した神威の深く広大なことが繁盛の源となったのである。

 こんぴらさんは海の回廊の聖地として、将来も多くの人々を惹きつけてやまないだろう。

(2003年12月21日掲載)

◆名称の変遷 当初は琴平社と称していたが、中世に本地垂迹説の影響で金毘羅大権現と改められた。金光院が別当に当たる。明治に入って神仏混淆が禁じられ、金光院は廃寺。明治元年6月に琴平神社となる。同年7月、金刀比羅宮に改称。明治4年6月から「事比羅宮」と表記されたが、明治22年7月、再び金刀比羅宮となる。

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