金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第37話

金毘羅信仰の源流(中)

神聖な海域「塩飽の海」

作家・フランス文学者 栗田勇

 瀬戸内の数ある島のなかで、こんぴらが様々な民間信仰に包まれ、熱い信仰の聖地となったのは、象頭山丘陵の特異な位置にある。

 いま、社殿の建てられている高さ六百メートルほどの雄大な台地をなす愛宕山、丸山、八景山の頂には岩座(いわくら)がある。丸山にある大麻神社は景行天皇のころにはじまり、弟橘媛が仕えたという伝承がある。起源は古い。海岸からいくらか隔たっているが、ひときわ大きな台地には、古代には恐らく、海が内陸に入り込んでいたという。海の標となる聖地として、超自然的な威力を思わせるに十分だった。

金刀比羅宮独特の風習・流し樽
金刀比羅宮独特の風習・流し樽

 重要なのは象頭山の前の海、塩飽=しあくはもとは<塩湧=しわく>から転じた名前であることだ。このあたりで、西は下関海峡と豊後水道からきた潮流が、東の紀伊水道からの潮流とぶつかり、そこで潮が湧き立って塩湧く海となる。もともと海面下の小島の岩も集まっていて、塩飽諸島が海賊・水軍の根拠地になったこともあった。いかにも不可思議な難所である。

 しかし、これを利用して、有名な「流し樽」の奉納がいつともなく行われるようになった。こんぴらさまに奉納する初穂や神酒、お賽銭を樽に入れ、「奉納金刀比羅宮」と書いた旗を立て、海を航行しながら樽を投げ入れる。すると「流し樽」は外洋に流れ出ることもなく潮に乗り、こんぴらさんのお山の麓の海域に流れつく。拾った漁民は間違いなくお宮に届ける。いまでも自衛隊の船がこんぴらさんの沖合を通過する時、樽を海に流して奉納しているそうである。

 もっとも古く視野を広げると、海沿いの農村で秋の初収穫をはじめ、人形(ひとがた)や依代(よりしろ)を祭りの時に、近くの川に流し、来訪神の故郷へと送り返すため海に戻す習俗があった。お盆の精霊送りなども当然行われた。瀬戸内海に入った川の流しものは、「しわく」に集まる。人々がこの海域を神聖なものとして、こんぴらさんの霊威を信じたのも自然であった。

高さ27・58メートル、万延元(1860)年建立の高燈籠。往時は瀬戸内海からも眺めることができた
高さ27・58メートル、万延元(1860)年建立の高燈籠。往時は瀬戸内海からも眺めることができた

 自然の天候に左右されやすく、板子一枚下は地獄といわれる海上航行では、海上安全を守護する霊威は何よりも頼りになったであろう。絵馬堂に奉納されている数々の絵馬は、実際に体験した暴風雨や遭難の記録を生々しく描いて、命拾いをした信仰心を物語っている。

 海上文化が古代から進展するにつれ、海上航行も頻繁となり、江戸初期には海難も増えてきたといわれている。とくに北前船を中心とする海運が商業経済の繁栄によって発達するにつれ、金毘羅信仰も次第に熱を帯びてきた。

波間に沈んだ船から海に投げ出された3人。金の御幣(左上)に向かって祈り、助けを求める姿を描いた海難絵馬(昭和7年奉納、部分)
波間に沈んだ船から海に投げ出された3人。金の御幣(左上)に向かって祈り、助けを求める姿を描いた海難絵馬(昭和7年奉納、部分)

 塩飽や備中の海を航行する船からの目印として、高燈籠が建てられている。暗夜の嵐のなかでただ一点の燈は、迷走する船にとっては天の救けであった。また、その奥を見透かせば、うっすらと象頭山の威容が浮かんでいる。こんぴらさんは自然の猛威を司る風の神、雲の神である。祈りに応え、難破寸前の船に向かって、金の御幣が雲に乗って、飛んできて救けてくれる、劇的場面も数多く絵馬には描き残されている。

(2003年12月14日掲載)

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