金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第32話

丸亀港の大灯籠

海に建つ"歴史の証人"

作家・脚本家・早坂暁

 こんぴら―金毘羅は私の幼い頭脳に最初に刻みこまれた地名である。

 私の生家は愛媛県の北条市で、国道に面した商家だった。家の前に遍路石があって、それに"こんぴら"の文字が刻んであったのだ。

 『左 こんぴら 三十三里
  右 まつやま 四  里』

 広澤虎造の浪曲による森の石松の"金毘羅代参"が大当たり、金毘羅さんは江戸の昔から代参をふくめ、日本中の人たちが瀬戸内海を渡って押しかけていたことを知った。

 私自身が金毘羅さんに詣(まい)ったのは、東京遊学の往路と復路の折々である。

丸亀市の文化財指定を受け、1977年に修理復元された「江戸講中灯籠」(後方)と90年建立の瀬山登の銅像
丸亀市の文化財指定を受け、1977年に修理復元された「江戸講中灯籠」(後方)と90年建立の瀬山登の銅像

 その折に金刀比羅宮界隈を歩いてみて、丸亀港の大灯籠に出会った。大灯籠というのは、灯台のことである。金毘羅信仰で殺到する参詣客は船で丸亀港へ着くのが大半であったので、丸亀港の灯台は参詣客の安全のために、絶対に必要なものだ。

 今見ても、堂々たる銅づくりの大灯籠のそばに、威儀を正して座っている武士の像があった。その人物の名は瀬山登(せやまのぼる)とある。丸亀京極藩の江戸留守居役という人物で、五万石あまりの貧乏藩にあって、徳川幕府との折衝で骨身を削っている。

 ことに、丸亀港の整備拡張は丸亀藩の大事業で、『新堀湛甫(たんぽ)及び銅灯籠』という名のもとに、なんと二十年もかかって完成させているのだ。

 ときは汚職で名高い水野老中の時代。律儀な能吏・瀬山登は、その折衝やら、金品の出納を洩れなく書きとめている。

 『水野老中へ 縮緬(ちりめん)三巻と肴
  勘定奉行へ 銀千枚と肴
  その他計銀三十六枚
      金三十一両一分二朱』

初代歌川広重が描いた「日本湊尽讃州丸亀」(丸亀市立資料館蔵)
初代歌川広重が描いた「日本湊尽讃州丸亀」(丸亀市立資料館蔵)

 大灯籠が江戸でつくられ、丸亀まで送るにあたっても、幕府勘定方を接待せねばならない。

 当時、丸亀藩江戸屋敷には酒を飲める担当者がいなかったので、もっぱら瀬山登が一人で引き受けたと記録されている。

 『…御門限を過ぎて帰りましたのは、不調法で恐れ入ります』

 江戸屋敷に帰邸するのが明け方の四時になったときの彼が提出した始末書である。

 瀬山登は、江戸屋敷の隣にある九州中津藩から、"うちわ"の作り方を教わっている。中津藩も同様の貧乏藩であったので、地元の特産竹をつかって、足軽たちに内職の竹うちわを作らせていたのだ。

特産の丸亀うちわ
特産の丸亀うちわ

 瀬山登は習った竹うちわに、松脂(まつやに)を塗って涼しげな"硝子団扇(がらすうちわ)"を開発、金毘羅さんに集まる参詣客に売って、ついに幕末には丸亀は全国一の生産地となっている。

 どうか、金毘羅詣りの折は、ぜひ丸亀港の瀬山登の像と大灯籠を見てほしいのだ。

 大灯籠の銅板には「寄進者・江戸本所 塩原太助(しおばらたすけ)八十両」とあって、"太助灯籠"と名付けられている。

(2003年11月9日掲載)

作家・脚本家 早坂暁氏

はやさか・あきら 1929年生まれ。日大芸術学部卒。61年脚本家デビュー。代表作にテレビ「七人の刑事」「夢千代日記」「花へんろ」、映画「空海」など。「ダウンタウン・ヒーローズ」「公園通りの猫」など著書多数。「修羅の旅して」「続・事件」で79年度芸術選奨文部大臣賞、94年紫綬褒章、2000年勲四等旭日小綬章。

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