金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第24話

神馬から絵馬へ

航海安全、豊漁願い奉納

兵庫県立美術館長・木村重信

 金刀比羅宮には何度か訪れたことがある。あるときは円山応挙の襖絵(ふすまえ)や高橋由一の油彩画を見るため、あるときは金丸座で歌舞伎を見るために。また、宝物館や絵馬殿を丹念に見たり、金丸座の「せり」や「スッポン」の人力による仕掛けを見学したこともある。

 金毘羅さんの語源は梵語(ぼんご)のクンビーラで、その音訳である。クンビーラはガンジス川にすむ鰐(わに)が神格化されたもので、仏法の守護神として薬師十二神将に加えられている。これが中国では蛟竜(こうりゅう)となり、金毘羅竜王と称された。そしてわが国では金毘羅権現となり、主として海上守護の神として信仰された。

海難絵馬 備後尾ノ道(作者不詳)1884(明治17)年 99・0×136・0センチ
海難絵馬 備後尾ノ道(作者不詳)1884(明治17)年 99・0×136・0センチ

 神馬(しんめ)というのがある。これは神の乗物としての、また祈願祈祷のため神社に奉献する馬のことで、神駒(かみのこま)ともいう。神馬は必ず装飾するのを例とし、四手(しで)を額髪の左右および中に三つ、とり髪に五つ、尾のつけ根に七つ付けるのが習わしである。この生馬のかわりに馬形、つまり木や石や土でつくった馬を奉納することもある。金刀比羅宮の表書院から少し登った参道脇に祀られている、讃岐一刀彫の神馬がそれである。この馬形を簡略化したのが板立馬であり、それがさらに簡略化されて板に描いた馬、すなわち絵馬がうまれた。

絵馬堂
絵馬堂

 絵馬はすでに奈良時代にあらわれ浜松の伊場遺跡(いばいせき)などから出土しており、奈良の当麻寺(たいまじ)などから鎌倉時代の遺品が見出されている。また、平安時代から鎌倉、南北朝にかけて、多くの絵巻物に絵馬が登場する。当初の絵馬は、馬が描かれ小型であったが、室町時代から馬以外の絵があらわれ、漸次大型化し、やがて桃山時代に絵馬を掲げるための特別の建物、絵馬堂がつくられるようになった。

茶所脇にある「神馬」
茶所脇にある「神馬」

 金刀比羅宮に遺存する絵馬は独特で、航海安全祈願あるいは海難救助のお礼に奉納された船絵馬が多い。自分の船を画面の中央に描き、上に航海守護神である金毘羅神の御幣を描いたものである。海運にたずさわる塩飽諸島の人たちの信仰から始まったらしい。また、瀬戸内海の漁民も豊漁を願って、絵馬を奉納した。興味深いのは、金刀比羅宮で漁民たちが「海上安全、大漁満足」の大木札を受けて帰るとき、御守授与所の神職の頭をたたく、変わった風習が伝わることである。水の神として、火伏せの信仰もあり、金毘羅神の守り札をかざして火を防ぐ、火難除けの絵馬も掲げられている。

 ヨーロッパにも船絵馬に似た図柄の奉納画がある。その場合、船の上に幼児キリストを抱いた聖母マリアが描かれる。起源は古代エジプトのイシスや古代ギリシアのアフロディテ(古代ローマではヴィーナスになる)で、これらの女神は航海の安全を保障する「海の星」として尊崇された。したがって星形の入れ墨は、海の女神ヴィーナスをあらわすものとして、現在でも水夫の腕に彫られている。

(2003年9月14日掲載)

兵庫県立美術館長・木村重信氏

きむら・しげのぶ 1925年京都府生まれ。京都大学卒業。京都市立芸術大学教授、大阪大学教授、国立国際美術館長を経て現職。世界全域で美術調査をおこなう。著書に『木村重信著作集』(8巻、思文閣出版)、『カラハリ砂漠』(講談社、毎日出版文化賞)、『美術の始源』(新潮社)、『はじめにイメージありき』(岩波新書)など。

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