金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第14話

歌舞伎とこんぴらさん

深い交情が取り持つ縁

エッセイスト・関容子

第3回四国こんぴら歌舞伎大芝居に来演。琴陵光重宮司の出迎えを受ける勘三郎丈(左)=金刀比羅宮社務所(昭和62年4月13日)
第3回四国こんぴら歌舞伎大芝居に来演。琴陵光重宮司の出迎えを受ける勘三郎丈(左)=金刀比羅宮社務所(昭和62年4月13日)

 私の自慢の一つに、こんぴら歌舞伎は一度たりとも見逃してない、というのがある。

 第一回は昭和六十年六月のことだから今から十八年も前のこと。そのとき、御一緒した劇評家の戸板康二先生も、第三回に出演した十七代目勘三郎丈も、ずっと親しくさせていただいた先代の琴陵光重宮司も、もういらっしゃらない寂しさが、それだけ長い年月を物語っている。

 勘三郎丈は金丸座への出演が決まると、昔さんざんあんな小屋を巡ったんだからもうたくさんだ、と気の乗らない感じだったそうだ。しかし初日に先立って、金刀比羅宮に参拝し、宮司を訪ねてからはすっかり機嫌がよくなった。一行の到着前から社務所玄関に宮司が立って出迎えたこまやかな心遣いが嬉しかったからだろう。人情の機微にはとりわけ敏感な人だった。

十一代目中村勘三郎が奉納した「江戸猿若町図」
十一代目中村勘三郎が奉納した「江戸猿若町図」

 宮司がかねて用意しておいた文化十(一八一三)年に十一代目勘三郎が奉納した「江戸猿若町図」(勝春筆)の絵馬を見せると、いたく感銘を受けた様子で、琴平を去る前に欅の一枚板に得意の茄子の絵を描いて絵馬堂に奉納した。来年もきっとまた金丸座に来るからと約束したが、その約束は果たされず、折しも第四回こんぴら歌舞伎の二日目に、東京の病院で逝去。

  勘三郎丈の死を悼むがに琴平の
  山の桜も雨に散りゆく

 これは宮司手向けの哀悼歌だが、今はないお二人の交情が、そのまま「歌舞伎と金刀比羅宮」の関係を端的に示す話になっている。

 金丸座には、御用木戸と言って金刀比羅宮関係者の特別の出入り口があったり、専用の西上桟敷があったりする。

 これは金刀比羅宮がその前身である金光院のころから芝居を助成していたからだ。金丸座ができたのは天保六(一八三五)年だから、その前の掛け小屋時代は雨が降ると芝居が打てない。すると、書院へ役者を呼び、客衆、客僧らの御馳走を兼ねて芝居を仰せつけた。「芸は虎の間にて致し候」「御覧場所は七賢の間」「鶴の間、富士の間、楽屋に致し候」ということだ。

十七代目勘三郎丈の茄子の絵
十七代目勘三郎丈の茄子の絵

 金刀比羅宮は芝居のスポンサーになるための資金を「九条くじ」と称する富くじによって調達したのだがなぜそこまでしたかと言えば、第一に芝居を打つことで町が繁盛する、第二にそれで人心に潤いが生じる、という大きな目的のためだった。

 その伝統は(富くじを除いて)今でもずっと続いていて、琴平の人たちはみんなあたたかくて優しいし、だから役者も金丸座に出るのを心待ちにしているのだろう。

(2003年7月6日掲載)

エッセイスト・関容子氏

せき・ようこ 東京生まれ。『日本の鶯―堀口大學聞書き』で日本エッセイストクラブ賞、『花の脇役』で講談社エッセイ賞、『芸づくし忠臣蔵』で芸術選奨文部大臣賞と読売文学賞を受賞。ほかに『中村勘三郎楽屋ばなし』『役者は勘九郎』などの著書がある。現在、「オール読物」に『海老蔵そして團十郎』を連載。

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