金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第11話

冷泉為恭筆 天井龍図

緻密な水墨、最後の大作

岡山大学文学部助教授・伊藤大輔

 冷泉為恭(ためちか)は、金刀比羅宮に縁の深い画家である。彼が金刀比羅宮を訪れたのは、明治も間近い万延元(一八六〇)年であった。この年三月に行われた金剛坊(こんごうぼう)の開扉に合わせて、兼ねてより金刀比羅宮とかかわりのあった関白九条尚忠(ひさただ)が飾車(かざりぐるま)一輌を奉納することになった。当時、九条家に仕えていた為恭はその奉行として金刀比羅宮を来訪したのである。

 冷泉為恭は、やや先輩格の田中訥言(とつげん)、浮田一蕙(いっけい)とともに幕末の復古大和絵派の画家とされる人物である。彼らは平安時代に完成されたやまと絵の手法を理想とし、古画の模写などを通して、当代にあらためて日本的な古典を再生させようとした。中でも為恭は、ひたすら平安王朝文化に憧(あこが)れ、公家として出世することを夢見ていた人物だったようである。そうした王朝文化に近づく手段として、彼は平安以来の古画の模写に励み、御神宝などの古器旧物や装束などの有職故実も研究し、王朝文化の正確な考証にも努めていた。

天井龍図
天井龍図

 ここに紹介する天井龍図は、華麗な色彩世界を特色とするやまと絵の復興を目指した為恭には珍しく水墨による大作である。社伝では、文久元(一八六一)年六月に京都から運び込まれ、金刀比羅宮内の全生亭(ぜんしようてい)という数奇屋の天井絵として表装したという。落款には「蔵人所衆関白直廬預従五位下行式部少丞菅原朝臣為恭図」とあり、近江守号が加わる文久二(一八六二)年以前の作であることが分かり、社伝は信頼に足るものと考えられる。

 縦二百八十四センチ、横三百七十六センチの大画面の中央に丸く体をたわめる龍は、輪郭線はもとより、毛の一本一本や鱗の一枚一枚まで明快な濃墨線でくくられ、巨大でありながらも意外な細密さを感じさせる。このような細部表現へのこだわりは、緻密(ちみつ)なやまと絵の復興を手がけていた為恭の感性が、水墨画になってもそのまま生きていたことを示している。

「龍図」は2002年秋、初めて一般公開された
「龍図」は2002年秋、初めて一般公開された

 龍の体を取り囲むように渦を巻く雲気が激しい水墨の筆致で描かれるが、龍の体が一部も雲気に埋もれずにいるため、この渦巻く激しい筆致は、自然の雲というよりも、龍体が発する妖気のように感じられる。その妖しい龍の神々しさは、顔を中心に手足や鱗の一枚一枚にまで加えられた金彩によって画面内でより引き立てられている。

 為恭は文久二年八月以後、誤解から攘夷派の浪士に襲撃され、逃亡生活を強いられることになる。その時期には草々たる略筆の水墨画を描くことも多くなったが、この天井龍図は、それ以前の気力、体力ともに充実した時期の為恭の画業の最後を飾る作品となっている。

 為恭は逃亡生活の末、元治元(一八六四)年五月五日、大和丹波市で長州藩士らによって刺殺されてしまう。彼が情熱を傾けて描きためた古画の模本類の多くは、後年、金刀比羅宮に納められることになった。これも為恭と金刀比羅宮の不思議な縁である。

(2003年6月15日掲載)

◆やまと絵 中国唐代の著色画(ちゃくしょくが)の技法を基礎においた日本絵画の呼称。時代により意味の変遷があるが、中世以降は、新来の水墨技法を包含する漢画と対立する言葉として扱われ、平安王朝文化の中で完成した日本絵画の古典的表現を想起させる意味作用を発揮した。題材も、日本の風物を描いたものが中心となる。

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