金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第10話

伝狩野永徳筆 富士山杉樹図屏風

等伯に影響 迫力の樹林

岡山大学文学部助教授・伊藤大輔

 金刀比羅宮が所蔵する屏風(びょうぶ)の中でも、名品として広く知られる作品である。六枚のパネルが連なる屏風が二面一組になる六曲一双形式で、一隻(一双のうちの片方)には、画面のほぼ中央に雪をかぶった富士山が描かれ、麓(ふもと)には垣根のように杉の木立が並ぶ。両者の間に金雲が左右から伸びて華やかさを添える。他隻には、杉の木立のみが描かれ、金雲が前後を挟むように広がり、空間の奥行きを描き出す。

富士山杉樹図屏風
富士山杉樹図屏風

 現在、縦百五十六センチ、横三百四十センチほどで、屏風の標準的なサイズである本間屏風の規格に当てはまる規模だが、すでに指摘されるように画面には引き手跡が見られ、紙継ぎの状態から見ても、元は襖(ふすま)であったと考えられる。美術史家の土居次義氏によれば、万延元(一八六〇)年の宝物目録の屏風品目の中に狩野永徳筆の富士に杉の屏風が記録されていると言い、幕末にはすでに屏風の状態で金刀比羅宮に伝えられていたらしい。

引き手跡の拡大図(部分)
引き手跡の拡大図(部分)

 それにしても、富士山と杉木立だけが描かれた襖に囲まれた部屋に入れば、どのような感覚に襲われるであろう。杉木立は決してその全姿を現さず、先端や根元などその一部だけを見せる極めて近接した視点で描かれている。おそらく高い木立に囲まれ、圧迫感が強いのではないだろうか。それはまるで富士の樹海をさまよっているかのような感覚であろう。そのような不安な圧迫感を誘う仕掛けの中で、富士はその宗教的な神々しさを見るものに印象付けることにもなる。

 富士の絵は古来、宗教的な信仰の対象として、また物語の重要な背景として描き継がれてきた。しかし、この屏風のように、富士と杉のみを描くという素材選択は珍しい。室町時代の作とされる「富士三保松原図屏風」では、富士の麓を杉らしき樹林が覆う描写が見られるが、それは広大な景観の一部としてであり、富士と単一の樹種のみで、近接拡大した視点の下に画面を構成することは前例がない。

 この近接拡大した視点や画面に大きく横たわる金雲の存在は、本屏風が桃山時代の作であることを告げている。社伝では、桃山時代の豪快な画風を確立した狩野永徳筆と伝えられるが、土居氏が指摘するように、杉の木を描く筆法は永徳のライバルだった長谷川等伯の特徴が明らかである。さらに単一の樹種による樹林を近景に垣根のように並べ、その奥に雪山をのぞかせるという構成は、等伯の代表作である「松林図」にも見られる構成原理である。

 本屏風は、「松林図」と同一の主題に基づいた一変奏と言えよう。本屏風と「松林図」の前後関係は即断しがたいが、本屏風は濃彩画でありながら、遠樹に水墨のみの表現を用いており、水墨画の痕跡を見せていることから考えると、「松林図」の成立後、そのバリエーションとして等伯直近の優れた画家の手で作られたと考えられよう。

(2003年6月8日掲載)

◆長谷川等伯(はせがわ・とうはく、1539~1610年) 能登七尾の出身。当初、信春という名で仏画などを描いていたが、33歳の時、父母の死を契機に上京した。京都では南宋の画家・牧谿(もっけい)を中心に、当時画家たちの規範となっていた中国水墨画の古典を広く学び、「松林図」に代表される独特の水墨画を創出した。

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