讃岐うどん遍路

うどん天国 空前ブームの深層

3.浮き沈み

飽食経て「素」に回帰

宇高連絡船の後部デッキで販売された立ち食いうどんは多くの旅行者や帰省客に愛され、讃岐うどんの名を広めた=資料、1969年
宇高連絡船の後部デッキで販売された立ち食いうどんは多くの旅行者や帰省客に愛され、讃岐うどんの名を広めた=資料、1969年

 第四次に当たるともいわれる現在の讃岐うどんブーム。

 「私が目指していた路線とはまるで逆。時代が求めているものが変わったようです」。これまでの変遷を見続けてきた、うどん店チェーン創業者のつぶやきだ。

 創業は一九六〇年代半ば。うどんは当時、家庭で手作りするか、近所の製麺(めん)所や八百屋などで買うものだった。外食するといっても大衆食堂の一メニューにすぎず、高松市内にうどん店と呼べる店はほとんどなかった。

 折しも、日本経済は右肩上がりの成長を続けていた。「県外客や社用族を案内しても恥ずかしくない店をつくれば、必ず来てもらえる」。読みはぴたりと当たり、家族連れなどにも受け入れられた。これを見て、同様の専業店も次々とオープンした。

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 讃岐うどんが脚光を浴びた時期は過去に三度ある。

 最初がちょうどこの六〇年代後半からの約十年間で、第一次ブームといえそうだ。

 象徴といえるのが、名物として語り継がれている「連絡船うどん」。六九年から始まった宇高連絡船デッキでのうどんの営業だ。潮風に吹かれながらの立ち食いの味が多くの旅行者や帰省客に愛され、讃岐うどんの名前を全国に浸透させた。

 七〇年に大阪で開かれた万国博覧会もブームに拍車を掛けた。手打ちの実演が行われたり、真空パックの製品が出品され、人気を博したという。

 香川をPRする特産品に育てようと、大平正芳元首相や金子正則元知事も力を注いだ。

 次のエポックとなるのが瀬戸大橋が完成した八八年。架橋博が開かれ、開通フィーバーで香川への年間観光客が初めて一千万人を超えた年だ。

 いわば第二次ブームだが、「客を客とも思わない売り手市場だった」(観光業者)のをいいことに、素うどんを法外な値段で売る店も現れた。強引な商売は県外客の不評を買い、大橋観光の陰りとともに、すぐに下火となった。

 九〇年代には「讃岐」を冠した冷凍うどんが爆発的に売り上げを伸ばし、讃岐うどんは家庭の食卓でもおなじみになった。

 第三次ブームが「恐るべきさぬきうどん」(ホットカプセル)出版後の九五年ごろから現在に至る時期。昨秋から県内外のセルフうどん店チェーンが東京での出店を加速、ブームはさらに勢いを増し、現在は第四次に突入しているという。

 ローカルから全国区へ。同書の著者で四国学院大教授の田尾和俊さんは「讃岐うどんは今まさに一つステップアップし、進化を遂げている最中」とみる。

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 各時代のブームは当時の世相や経済情勢を的確に映している。

 第一次は大量生産・大量消費の高度成長期、第二次は虚構の夢に酔ったバブル経済期と符合する。九〇年代初頭のバブル崩壊後の「失われた十年」に第三次が出現したことになる。

 地域経済や観光の事情に詳しい北九州市立大大学院教授の井原健雄さんは指摘する。

 「飽食の時代を経て、人々が『豊富の中の貧困』に気付いた。グルメや高級志向にも飽きた時に、反動のように現れたのがスローライフの運動だった。今のうどんブームは心の豊かさを求める精神と結び付いている」

 飾り気はないが本物の味がするうどんが、低成長の時代に受け入れられたというのだ。

 山里のひなびた田舎家に、出来立てのうどんを求めて都会人たちが行列をつくる。どこかミスマッチにも見える光景は、飽食から質素へ回帰しようとする時代の雰囲気を表しているのかもしれない。

(2003年12月4日掲載)

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