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甲子園大会100回 県勢あの夏の記憶(1)第37回(1955年)準々決勝 強豪破り戦後最高の準V

2018/05/16 09:32

第37回(1955年)準々決勝
第37回(1955年)準々決勝

坂出商右翼手・大東貴義さん
坂出商右翼手・大東貴義さん

宿舎で準優勝盾を囲み、晴れやかな表情を浮かべる坂出商ナイン
宿舎で準優勝盾を囲み、晴れやかな表情を浮かべる坂出商ナイン

 坂出商は1、2回戦を競り勝ち8強入り。迎えた日大三(東京)との準々決勝は苦戦が予想されたが、打線が爆発した。三回に2点を先制し、五回は長打攻勢で4点。七回には打者一巡の猛攻を見せ、終わってみれば計10安打で10得点。右腕岡崎秀智も強力打線を3安打に抑え10―1で大勝、下馬評を覆した。

 チームは波に乗り、準決勝は立命館(京都)を2―1で撃破。四日市(三重)との決勝は1―4で惜敗したが、この準優勝は戦後の夏の県勢最高成績として今に残る。

坂出商右翼手 大東貴義さん 「自分たちが一番びっくり」
 当時、どこの新聞も日大三が圧倒的に優位と書いてあった。正直、自分たちもそう思っていたし、宿舎では「明日、負けて帰るんだよな」とみんなで話をしていた。

 相手は洗練された都会の高校生。体も大きく、エースの並木(輝男)投手は後に阪神に入った。逆にうちは田舎者。レギュラーで170センチを超えていたのは3人と小柄だった。北四国代表としてぶざまな負け方はしたくなかったが、なぜかリラックスしていた。

 それが良かったのか、いざ試合になると、みんなが不思議とヒットを打った。県予選、北四国大会、甲子園の1、2回戦と、ほとんどロースコアだったのに終わってみれば10安打で10得点。今のように相手を分析し、特別な対策をしたわけではない。木のバットだったので、大きい当たりを打てる選手もいなかった。自分たちが一番びっくりした。

 続く準決勝の立命館にも、プロ入りした富永(格郎)投手がいた。球が速く苦戦したが、何とか勝てた。大きかったのは2―1で迎えた六回の守備。1死満塁でものすごく強烈な当たりを一塁水本(茂)が飛びついて捕り併殺。ライトを守っていた僕は完全に抜けると思ったが、あれは印象に残るプレーだった。

 四日市との決勝は2回戦の岩手戦以来、前評判で坂出商が有利と言われたが、そうなると僕たちも欲が出て打てなかった。エースの岡崎も5試合目。疲労で球が走っていなかった。

 大会を通し、僕たちは猛練習してきた守りで準優勝できたと思う。中心は岡崎。球はそこまで速くなかったが、ボールが先行してもカーブでカウントを取れた。ほとんど四球も出さなかったので守りやすかった。彼は授業中、ボールを持ってカーブの感覚を練習していたほどだから。

 甲子園の前、北四国大会も思い出深い。1回戦の松山商、決勝の高松商ともに延長十一回のサヨナラ勝ちだった。

 松山商戦は十一回で決着しなければ日没再試合だった。先攻の相手は0点。うちも2死走者なし。誰もが再試合と思ったところで、僕がレフトに本塁打を放った。個人的なことだが、父を戦争で亡くし、牛を使って田んぼを耕したりしていたので力には自信があったけど、まさか柵を越えるとは。

 三塁ベースを回るとき、松山商のスタンドから瓶が飛んできた。当時の北四国大会は応援が激しかったから。今となってはすごく懐かしい。
(文中敬称略)

 おおひがし・たかよし 坂出商高3年時、1955年夏の甲子園に右翼手で出場し、準優勝に貢献。中大時代は全日本大学選手権準優勝。卒業後は高松琴平電気鉄道でプレー。県高校野球連盟の審判員も15年間務めた。坂出市在住。81歳。

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