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語り部に聞く「海軍に志願して」

2012/07/05 10:09:18
語り部に聞く「海軍に志願して」
 琴平町内のホテルで7月2日、仲多度郡遺族連合会の総会が行われ、戦争体験を伝える「語り部の会」が開かれた。

 語り部は、善通寺市在住の金清道保さん(83)。「海軍に志願して」と題した話だった。金清さんは昭和19年12月、甲種飛行予科練習生・土浦海軍航空隊、藤澤海軍電測学校に入校。20年4月に繰り上げ卒業をし、呉港に停泊中の駆逐艦「樫(かし)」に乗艦、厳しい訓練を受けた。

 同6月、音戸の瀬戸の倉橋島に回航、本土決戦に備え、駆逐艦に網や松の木を被せて敵の目から艦を守ろうとした。機銃の一部を山頂に移して陣地を作り、昼間は消灯、夜間も節電。敵の本土上陸は鹿児島か東京湾と想定し、そこへの片道燃料を確保していたそうだ。

 だが7月23日、艦は敵の猛襲を受け、山上陣地も桟橋で待機中の機関科員等にも多くの戦傷死者を出した。

 そして8月6日、朝の始業開始直後、雷のような閃光、間をおいて大音響、呉方面に異様な「きのこ雲」が見えた。詳細を知る由もなく、艦内では呉の火薬庫の大爆発では? と話していた。やがて、広島の悲惨な情報が知らされ、「原子爆弾」と分かった。戦闘員には頭巾と手袋が支給され、原爆の閃光被害の対処策と言われた。

 8月15日、玉音放送を聞き、艦長から「大御心(おおみこころ)に添い奉(たてまつ)るように」と、言われ、艦内は一糸乱れぬ行動に終始した。16日に呉港に戻り弾薬庫の陸揚げ、武装解除作業、米軍の臨検準備などに携わった。

 9月〜10月にかけては、遠い地で戦い、生き残った兵士らを連れ帰る復員兵の輸送任務に当たった。10月5日、日本海軍艦艇から復員兵輸送艦となった艦でマニラへ向かい出航。残存していた駆逐艦、海防艦等が日本海軍最後の編隊航行となり、感無量であった。

 われわれ乗組員と、米輸送船で送られてくる兵士たちとの間には共に戦った者同士としてか、また、日の丸を船腹に描いて入港した軍艦を見て本当に日本へ帰れるという安心感からか、さらには、私たちにもようやく迎えに来られた感慨があったためか、目を合わせた瞬間、お互いにとめどなく出る涙を抑えることができなかった。私はこの感激を一生大切にしたい。

 21年5月、マニラへ2回、続いて台湾の花蓮港と基隆(キ―ルン)港への復員兵輸送業務に従事し、艦の整備に長崎三菱造船所に回航した所で退艦、旧制中学校に復学を果たした。

 今でも疑問に思っているのは、飛行予科練習生として航空兵科に属する私たちがなぜ、駆逐艦に乗艦させられたのか。復員後に作成された名簿には「回天要員」(回天とは、旧日本海軍の特攻兵器の一つで、人が乗り組み操縦できるようにした人間魚雷)となっていた。私たちは人間魚雷としての「回天要員」だったのだろうか?

 私の人生にとって、海軍での生死を掛けた経験がどう生かされたのか、凡人の私には評価できない。だが、ロシア抑留中の父は失ったものの、3分散していた母と妹、私たちが再会できたことを感謝している。

 「平和は守っていかなければならない。命の続く限り、英霊顕彰(国家のために殉難した人の霊をまつること)と残された遺族の方々への援助活動を続けたい」と、話し終えた戦争の語り部・金清さん、50余人の遺族会員たちは深くうなずいていた。                                     (香川 佳子)
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