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壮絶な日々 シベリア抑留

2011/12/14 10:49:56
壮絶な日々 シベリア抑留
 極寒のシベリアで2年間、壮絶な抑留生活を送ったまんのう町吉野の鈴木信男さん(86)が、「私のシベリア抑留生活パートT」と題する講演をした。

 11月29日、同町の満濃農改センターで退職公務員連盟仲善支部が開いた退公連講演会でのこと。司会者の「よくぞ生きて帰られました」の言葉を実感しながら41人の聴講者はかたずをのんで聞き入っていた。


 鈴木さんたちの部隊は昭和20年8月24日まで戦ったと言う。「敗戦を知らせたら、10人中8人は自決するだろう、暴動を起こさせないために」と、上部の考えから「戦争は中止した。負けたのではない、自決しなくてよい」と言われた。

 「国へ帰す」と言うロシア兵の言葉を信じて「武装解除」に応じ、引揚船を目指して言われるままに歩いた。方向の分からない夜を中心に歩かされ、次第に「負けたこと」が分かったと言う。

 状況を知ろうと、土地の人に話しかけただけでも、警備のロシア兵から実弾が飛んで来る。「ダモイ」という甘言に、「帰れるかもしれない」という、一縷(る)の望みを抱き続け、暴動を起こさなかったのだろう。

 行軍中、彼らに時計(ネジの巻き方は誰も教えない。両腕に10個ぐらい巻き付けて自慢するロシア兵もいた)、万年筆、下着などを「くれ」と、取られた。渡さないと後が怖い。向こうは物がない。日本人の持ち物が欲しい。途中で亡くなった日本兵は丸裸になるまですべて盗られた。

 北朝鮮の暴動や引揚船の遅延などを口実に、回り道や遅歩きを強要されながら、14、5日かけてハバロフスクの近くへ着いた。そこへは各地から約2千人の日本兵が集結。ロシア兵から「汽車に乗れるぞ」と言われ喜んだが、汽車も走るのは夜だけだった。

 賢い兵が場所を推測、遠くへは動いていないと分かった。ハバロフスクを通過、ある時は反対方向へ走ったりもした。一つの車両に100人近くが乗せられ、やがて近くの収容所(ラ―ゲル)へ連れて行かれた。「ダモイではない」と言われ、抑留生活が始まった。

 文化の日、拳銃を隠し持っていた将校が兵を集め、半武装に抜刀をして構え、「宮城遥拝(ようはい・遠くから礼拝する)」をすると向こうは逃げた。「日本刀を抜くと殺される。陸軍が団結したら怖い」と、思っているので銃は預けられ、日本兵の心を常にバラかそうと考えていた。

 寒さは最高がマイナス50度。朝起きるとまぶたやヒゲも凍っており、ドアのノブも、指で持つと指の肉がくっ付いて離れなくなるのでつめで持つ。スプーンも唇に当たると凍り付いて離れず、大変なことになる。

 労働力確保のため、隔月に軍医が身体検査に来る。その時には赤軍が付いて来て共産思想の教育をする。成績優秀者は優遇、日本へ帰り、思想を普及出来る者は早く帰すという話も聞いた。

 収容所には長い方に門があり、四隅に望楼があって常に監視され、異変があればすぐに実弾が飛んで来る。トイレは板2枚だけ。望楼から見えるようになっており、2、3歩前に出ただけでも打たれて死んだ人もいた。

 ノミやシラミにも悩まされた。並んで寝ていた人が夜中に死ぬと体が冷たくなり、そのシラミまでがこちらへ移って来てますます痒(かゆ)くなるのだ。

 糾(きゅう)弾(罪や責任を追及して非難攻撃すること)会もある。攻撃の対象者を決めてつるし上げる。それが済んだら仕事、帰るとまたつるし上げ。4、5日も繰り返されると神経がやられ自殺する兵も多かった。


 極限の世界を乗り越えて来たとは思えない、穏やかな表情で淡々と話した鈴木さんは「いろいろな人の話を聞いたうえで、戦争の空しさ、平和への祈りを感じていただければ幸せ」と、今回の話を結んだ。参加者たちは、想像を絶する抑留生活の日々に思いをはせ、パートUを心待ちにしながら、言葉少なに席を立った。                                        (香川 佳子)
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