天気予報を見る
 
新聞購読申込
TOP > おりーぶ通信 > 記事詳細

おりーぶ通信

エリア

コーナー

過去のニュース

戦争の恐ろしさ後世に

2011/07/19 11:16:24
戦争の恐ろしさ後世に
 戦後60余年たった現在、戦争体験者や戦没者の妻、遺児など、遺族も次第に高齢化したり亡くなったり。戦争の様子や家に残された人たちの生活を知る人が少なくなっている。

 仲多度郡遺族連合会女性部(増田勝子部長)はこのほど、「語り部の会・戦争のお話を聞く研修会」を開いた。この日の語り部は、まんのう町佐文の白川義則さん。大正11年6月生まれで89歳。戦争の体験者だ。

 白川さんは終戦の時、軍隊関係の書類や本などはすべて焼いたが、入隊をし、訓練を受けた時の日記だけは残しておいたため「自分史のようで恥ずかしいが」と言いながら、それを手に、戦争の体験を語った。

 当時の日本では、満20歳になった男子は徴兵検査を受け、合格者は兵役につく義務があった。白川さんも20歳になった昭和17年、同検査を受けて合格し、昭和18年1月に入隊。軍事教育は厳しく、晴天時には強錬、雨天時には学科が講じられた。少年兵は消灯ラッパの後も寝られず、班長や先輩の衣類を冷たい水で洗うなど上下関係は絶対的なものであった。

 軍事教育の成績で兵の階級や配属が決められ、白川さんは現役兵となり戦場で戦うことを希望したが、陸軍の近衛(このえ)兵として、天皇と皇居を守ることになった。

 昭和19年に入ると、B29が東京へ来だした。警報が鳴ると、即飛び出して行く。寒い冬などこれが2〜3回続くと夜は眠れない。アメリカが東京を焼き尽くすため、試験的にやったらしい。

 昭和20年3月10日、B29が300機以上、焼夷(しょうい)弾も50メートル間隔ぐらいに落として、一夜のうちに東京36万戸が焼かれ、死傷者12万人、東京の4割が壊滅した。九段下は、鍋、釜に年寄りを背負い、逃げる人でひしめいた。強風の中、九段会館一帯は火の海に。隅田川に沿って千葉へ出ようとした人は行きづまり、押し倒されて死んだ。頭から川に入った人は足から下が焼かれて骨だけになっていた。家族を探す人が必死で死がいを越えて歩く。横たわる死がいを兵隊がだびにふした。

 5月24、25日にも再び大空襲。B29が500余機、火の玉が天皇の住む宮城にも吹き込み、宮城は焼け、連隊も消失した。以後、空襲は灰になった東京へは来ず、神奈川などへ移った。

 終戦の玉音放送前夜には、放送を止めさせようとする少年将校が、承知しない師団長を射殺する事件も起こる、生々しい秘話に皆、驚かされた。玉音放送は行われ、白川さんは「ポツダム宣言を受けたんだなぁ」と、涙ながらに悟ったとか。

 終戦になり、マッカーサーが来る。近衛兵は9月、武装解除になった。9月10日には軍服を黒く染め、皇居の警備は続けた。宮内庁職員として、新しく要員が募集され、優秀な兵の残りが応募して来た。

 白川さんは21年3月に帰省。以来農業に専念し、今も酪農に励んでいる。「戦争はするもんじゃないが、自分の国を愛する心は持っていなければいけない。人間は教育で変わる」と、話す。それからひとこと。今の政治を見ていると、「これで日本が将来、もっていけるんやろかと思う」とも話した。

 日記をもとに語られた戦時中の日本、東京大空襲の恐ろしさ、さらに、近衛兵の実態を初めて知った人たちは遺族会の今後の指針として「英霊顕彰(隠れた功績などを一般に知らせる)が大切」「語り部の話を聞き、後の世に戦争の話を伝える材料にしよう」などと、話し合っていた。                                       (香川 佳子)
▲このページのトップに戻る
購読のお申込みは0120-084-459

SHIKOKU NEWS 内に掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。 すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。

Copyright (C) 1997- THE SHIKOKU SHIMBUN. All Rights Reserved.