シリーズ追跡 丸亀藩の巨大砲弾
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幕末讃岐はハイテク国

 きっかけは人気テレビ番組だった。「そんなのあるわけない」。鑑定した砲術研究家も目を疑ったが、本物と認定せざるを得なかった。江戸後期、丸亀藩で製造されたという巨大砲弾。直径約50センチという江戸最大級の大きさもさることながら、これを約700メートルも飛ばした技術には専門家も舌を巻いた。200年余の時を超えて姿を現した巨大砲弾から何かが見えてきた。

江戸最大級

源内、通賢を生んだ土地 小藩にも高度技術

丸亀藩の家老らが開発した直径約50センチの巨大な砲弾と、砲術研究家の沢田さん。当時の讃岐が持つ技術力の高さを立証しているという(資料)
丸亀藩の家老らが開発した直径約50センチの巨大な砲弾と、砲術研究家の沢田さん。当時の讃岐が持つ技術力の高さを立証しているという(資料)

 大きな黒い椀[わん]状の物体が二つ。これを合わせると、巨大な鈴のようにも見える。これが砲弾なのか。しかも異常に軽い。「和紙と竹でできていますから。でもとても強いんですよ」。砲術研究家で堺鉄砲研究会会長の沢田平さん=大阪市=はこう言って、丸亀藩の巨大砲弾の説明を始めた。

■メモリアル
  砲弾の直径は約五十センチ。一部に竹を用いているが、ほとんど和紙でできており、これを張り重ねて外殻を構成している。もちろん今回見つかったのは外殻だけ。「焙烙[ほうろく]玉と呼ばれる砲弾で、これは二百貫目玉になります」と沢田さん。「そんなに重いの」と驚いていたら、「砲弾の大きさを示す玉目は鉛換算で示すのが慣習。実際はもっと軽量です」と補足してくれた。
  焙烙玉は、中に火薬や鉄片などを入れて、敵陣に撃ち込むもの。着弾と同時に爆発するのではなく、着弾後にさく裂する。鉄片などが飛び散って、破壊力は大きい。
  人気テレビ番組から鑑定を依頼された沢田さんだが、当初は半信半疑だった。ところが、砲弾の表面には開発の経緯を記した金文字の銘文があり、これが鑑定作業を導いてくれた。
  銘文や文献を調べた結果、開発を指揮したのは丸亀藩京極家の家老で、荻野流の砲術家だった岡織部次操と分かった。銘文には、一八〇二(享和二)年、領内の北平山干潟での実験の一部始終が克明に記されていた。実験は大成功で、予想を超えて、七百メートル近くも飛んだという。
  砲弾表面の漆の劣化具合や開発者が特定できたことなどから「不審な点はない」と沢田さん、自身の鑑定に太鼓判を押す。また、内側にも漆加工している点を踏まえ、「これは画期的な開発を後世に伝えるメモリアル砲弾だったのでしょう」と付け加えた。

■木砲で撃つ
  なぜ、丸亀藩で巨大な砲弾が製造されたのか。幕末に向けて、世情が慌ただしくなる中、五万石の小藩といえども万一の事態に備えたのではないかとの見方が一般的だ。
  京極家は、足利尊氏を支えた実力者で、華美な出で立ちと大胆な行動から、「婆娑羅大名」と呼ばれた佐々木道誉を先祖に持つ家柄。「それだけに…」と言いたいところだが、丸亀市立資料館の秋山徹館長は「丸亀に転封後の京極家は、どちらかといえば、文芸に秀でた藩風が特徴」と説明。では、砲弾開発の事実は信じ難いことかというと、そうでもないらしい。
  「丸亀藩は水軍を持っており、鉄板を張った和船の建造を命令したという言い伝えも残っている。軍備にも力を入れていたのは確か」と秋山館長。巨大砲弾を開発する下地はあったようだ。
  金属製の巨砲などがない時代。こんな大きな砲弾をどうやって発射したのか。当時はカシやクヌギでつくった木砲で撃っていた。これは竹材でぐるぐる巻にしたもので強度は高かったという。ただ、使用する火薬の配分など、高い技能が求められたのは明らかで、これを約七百メートルも飛ばした技術には驚くばかりだ。
  さて、丸亀藩の砲弾から何が分かるのか。「要するに当時の讃岐は、ハイテク国家だったということですね」。旧引田町出身で、江戸後期の科学者・久米通賢の研究者としても知られる沢田さんは、さらりとこう言ってのけた。
  仕掛け鉄砲、大砲、和製マッチ、測量技術など。これらは、沢田さんが三十年を超える讃岐通いの中で掘り起こした通賢の独創的な技術や開発品だ。「どれも国内随一のものばかり。これだけでもすごい」と沢田さん。「さらにエレキテルの平賀源内や通賢という天才ではなく、小藩にも高度な砲術技能があった。これは讃岐という地域が高い技術を持っていたことを証明している」と強調する。
  二百年余の時を超えて姿を現した巨大砲弾は、先行き不透明な現代社会に生きる讃岐人に、自信を与えてくれているようだ。

 

その後

大玉花火確立に貢献?

歌川広重の「名所江戸百景 両国花火」(埼玉県立川の博物館提供)。打ち上げ花火が花火大会の主役となるのは幕末以降とみられる
歌川広重の「名所江戸百景 両国花火」(埼玉県立川の博物館提供)。打ち上げ花火が花火大会の主役となるのは幕末以降とみられる

  讃岐の技術力によって誕生した焙烙玉はその後、どのような歩みをたどったのか。
  発射実験の成功から約二十年後の一八二一年(文政四)年に、この快挙を記した武術絵馬が金刀比羅宮に奉納されている。だが以後の史料で、丸亀藩の焙烙玉について触れたものは見つかっていない。
  明治維新に至る動乱期にも、丸亀藩が本格的な戦闘を行っていないことから、沢田さんは「焙烙玉が実戦で使われることはなかっただろう」と話す。幕末になると、各藩が力を注いだのはむしろ西洋流砲術の導入。兵器の洋式化が急激に進められる中、伝統的な砲術は影が薄くなっていったようだ。
  ただ、沢田さんは丸亀藩の焙烙玉が無用の長物になったとはみていない。「和紙を重ねて張った中には火薬のほか、小さな焙烙玉をたくさん詰めた。そう、この構造、花火そのものでしょう」。直径五十センチの巨大な球体とそれを飛ばす技術が打ち上げ花火に転用された、というのが沢田さんの説だ。

■原理は同じ
  果たして真偽はどうか。
  訪ねた先は花火製造の老舗、細谷火工(東京都あきる野市)。同社会長で足利工業大大学院非常勤講師(煙火学)の細谷文夫さんは開口一番、「この時代に二尺弱(一尺=約三十センチ)を発射できたのはすごい」とうなった。「玉が大きいほど火薬が必要。当然危険性も増す。それをクリアして安全に飛ばしたことに価値がある」というわけだ。
  「玉の形状と発射の方法も打ち上げ花火と同じ原理ですね」と細谷さん。ただ打ち上げ花火の変遷の歴史は十分明らかになっていないとも言う。
  細谷さんによると、「玉屋、鍵屋」で知られる両国の川開き花火が始まった一七三三(享保一八)年ごろの主流は、筒から火の粉が吹き出す立ち花火や仕掛け花火。その後、ロケット式の花火などが登場するが、上空で玉が開く現在のような打ち上げ花火がいつ現れたのかは定かでない。文献にそれらしき「打揚」の語が登場するのは一八〇四(享和四)年だが、これも花火の正確な種類ははっきりしないという。
  それでも丸亀藩の焙烙玉と花火の関連について、細谷さんも否定しない。武家の砲術家が合図用ののろしに工夫を加えたり、一方の花火師ものろしをヒントに大花火をつくっていった形跡があるからだ。「明治に入って花開く打ち上げ花火、中でも三尺玉など大玉花火の進展に影響を与えた可能性は大いにある」と語る。

■夏の夜の華
  一八五八(安政五)年製作の歌川広重「両国花火」には、「現在のものに近い打ち上げ花火」(細谷さん)が描かれている。このころになると、打ち上げ花火が花火大会の主役となっているようだ。
  花火玉の大きさについては、世界一の四尺玉で知られる新潟県小千谷市片貝町の奉納花火で、「三尺玉を含む一尺以上の花火が上げられたのが一八九一(明治二四)年」(片貝煙火協会)という。いずれも丸亀藩の焙烙玉以後の出来事だ。
  「軍事目的だったものが、やがて産業目的、庶民の娯楽へと変わったケースは多々ある。焙烙玉もそうした運命だったのでしょう」。鑑定した沢田さんは語る。
  文芸を重んじる藩風だった京極藩。発射実験の当時藩主だった高中、その跡を継いだ高朗はともに大の相撲好きで、お抱え力士らによる相撲を城内で催し、一般に公開することもあったという。そんな人間くさい殿様であれば、焙烙玉で戦果を上げるよりも、夏の夜の華として打ち上げる方が、かえって本望だったかもしれない。

【取材】広瀬大、山田明広

(2008年6月8日四国新聞掲載)

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