| 家族やわが家を失ってぼう然とする市民たちのはるか上空で、そのシャッターは切られた―。米国の国立公文書館に保管されていた四枚の航空写真。高松空襲翌日の一九四五年七月五日に米軍機が高松市街地を撮影したものが、このほど見つかった。六十一年の時間を経て初めて見下ろす「焼け野原」を前に、空襲体験者に記憶をたどってもらった。
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| A:焼け残った木造の国鉄高松駅 |
「六十一年前にこれだけ正確に撮影できたとは…。こんな相手と戦争したなんて嫌になる」。航空写真をのぞき込む「8・15戦争体験を語りつぐ会」のメンバー四人。世話人の岡田昌子さん(73)のため息を皮切りに、それぞれの体験を語ってもらった。
「地面に頭をつけて震えていた」。当時、亀井町に住んでいた喜田清さん(73)が逃げ込んだのは、現在の中央公園にあった国民学校(旧高等小学校)の防空壕(ぼうくうごう)。喜田さんは同校高等科の一年生だった。
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| B:倒壊を免れた三越(右端)と大和生命ビル(中央奥)、焼損した高松郵便局(左端) |
米軍資料によると、高松への爆撃は四日午前二時五十六分から同四時四十二分まで。投下した爆弾は八百三十三トンに及んだ。喜田さんが覚えているのは「とにかく熱くて恐ろしかった」。おそるおそる壕を出たのは爆音がやんでさらに時間がたってから。一面炎上した街には死体が転がり、「校庭には針山のように焼夷弾が刺さっていた」という。
県立高等女学校の三年生だった戸祭恭子さん(75)。水に浸した布団をかぶり、母と三人の姉と一緒に中新町の自宅を飛び出したが、八幡通りはすでに避難者でいっぱい。「逃げずに火を消せ」と群衆を追い返そうとする警防団のすきをみて走り抜けた。女五人で藤塚町を南に抜けようとしたが、途中、沼地で靴をとられはだしに。赤く染まった夜空を無数の焼夷弾が流れ落ちる中、右に左に逃げまどった。ようやく夜明けごろ、煙の向こうに見えた真っ黒い太陽が忘れられない。
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| D:南西方面から望む高松市役所 |
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| C:迷彩色の百十四銀行本店(現高松支店) |
藤野千都さん(64)は番町の自宅前の防空壕に避難した。幼かったせいか、うずくまる親をよそにそっと空を見上げると、「大きな機影がびっしりと見えた」。記憶に残っているのは、空襲がやんで祖父と自転車で逃げる途中、師範付属小横の道路で見た小さな子どもの焼死体だという。
「高松空襲を記録する会」(一九七二年結成)を母体に活動を始めた「語りつぐ会」。八九年からは毎年七月四日に空襲跡地を歩いているが、戦災当時の建物は次々と壊され、いまでは百十四銀行高松支店などがわずかに残るだけだ。それだけに、「どこが焼け、どう逃げたか。写真を見ながら話せば当時を知らない若い人にも分かりやすい」(戸祭さん)と期待する。
今年も四日午後六時から栗林公園北門に集合して中野町付近を歩く。ただ、会のメンバーを含め空襲体験者はすでに高齢。岡田さんは「人も建物も、時代の証言者がどんどんいなくなる」と記憶の風化を恐れている。
「目からうろこというか…驚いた」。航空写真をまじまじと見つめる「戦災前の高松市住宅地図を復元する会」の代表者、谷本亘さん(70)。目を引いたのは中央通りの延び具合だ。谷本さんが復元した空襲直前の住宅地図では、中央通りの南端は兵庫町。しかし、写真ではすでに中新町交差点まで延びているのがはっきりと分かる。
なぜ食い違いが生じたのか。谷本さんによると、軍部による情報規制で空襲前後十四年間に及ぶ「地図の空白時代」があり、戦前の地図で参考にできたのは一九三六(昭和一一)年の都市計画図までという。「あとは当時の市民の証言が頼り。複数の証言で間違いないと思っていたが…」。古い建物がなくなり、街路網の復元さえ簡単でないようだ。谷本さんは「画一的な戦災復興で失われた城下町の街並みを再現するのが目的。写真を基にあらためて検証したい」と話す。
「空襲は劇的に街の形を変える。その点、米軍による航空写真は都市の歴史や変化を学ぶ上で格好の資料。戦争のために撮られたものだが、いかに平和利用するかが大切だ」。そう強調するのは、米軍による国内の空襲被害に詳しい徳山高専(山口県周南市)の工藤洋三教授。米軍は損害評価のために必ず空襲前後の都市を撮影したが、精度の高い航空写真が見つかっている都市は少ないという。
では航空写真を基に、どこまで詳細な被害分析ができるのか。高松市民文化センター平和記念室がこれまでに作成した焼失地域図には厳密な被害範囲は示されていない。
工藤教授に聞くと、「精度の高い写真だが、被災したのか、もともと空き地だったのか判別できない個所は残る。それを埋めるのはやはり証言」とのこと。「証言を得ては修正する。それを繰り返して完成に近づける作業を、地元が一丸となって取り組むしかない。データの解析などで若い世代の手を借りれば、輪が広がるきっかけにもなる」と、空襲の記録運動に航空写真を活用するよう勧める。
山下和彦、戸城武史が担当しました。
(2006年7月2日四国新聞掲載)
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