新潟県中越地震から間もなく一カ月。被災地ではいまなお、九千人余りが避難所や屋外でのテント暮らしを余儀なくされている。徐々に収まりつつあるとはいえ、いつ襲ってくるとも知れぬ余震の恐怖と闘いながら、日常生活を取り戻そうと復興への模索が続く。現地ではいま、何が課題となっているのか。被災者を支援するため、同県小千谷市に日赤香川県支部が派遣した救護班(班長・吉沢潔高松赤十字病院呼吸器外科部長)に十四日から十六日まで同行。そこで避難生活を送る人々の苦悩や全国から集まったボランティア、日赤の活動ぶりを追った。

 |
| 避難所となっている小千谷小体育館。豪雪期を控え、行き場のない被災者が多い=新潟県小千谷市の小千谷小体育館 |
バリバリバリッ。深夜、小千谷小学校の運動場。激しい雨が容赦なく避難テントを襲う。雨は運動場で泥の川となり、無情にもテント内へと流れ込む。そんな中、お年寄りの男性がテントから出て、仮設トイレまでの数十メートルを歩き始める。傘は強風で反り返り、靴を泥に埋めながら…。
男性は体育館に避難していたが、「窮屈で息が詰まる」とテント生活を選んだ。トイレが遠くなったため、失禁した経験も。この日もびしょ濡れになり、寒さに震えながらこう嘆く。「いつまでこんな生活を続けなければならないのか…」。
一方、体育館内。夜は火災や乾燥を避けるためストーブを切り、相当冷え込む。電気は余震発生に備え一晩中つけっぱなし。さらに、気遣いによるストレスも大きい。午後九時にテレビが消えるのと同時に、会話はパタリとやむ。無言で遊ぶ子供たち、せき払いを押し殺す高齢者、誰もがトイレに行く足音にすら神経をとがらせる。
 |
| 本震で1メートルほど飛び出したマンホール。市内には至る所で飛び出したマンホールがそのままになっている=新潟県小千谷市内 |
約1割に減少
小千谷小では体育館に約七十人、運動場のテントと車に約百三十人の計約二百人が避難生活を送っている。最も多い時期は約二千三百人に上ったが、住宅の修理や後片付けが終わるにつれ、約一割にまで減少した。
市内では電気と水道がほぼ復旧し、コンビニエンスストアや飲食店も営業を再開。道路の亀裂や「危険」との張り紙がある住宅、ガスの復旧工事など震災のつめ跡は随所に残るものの、街は「日常の風景」を取り戻しつつある。
状況を踏まえ、小千谷市は「自立を促すことが必要」として、可能な被災者から家に戻るよう呼び掛け、仮設住宅の入居者募集も始めた。
足りない住宅
「仮設住宅は希望者が多くて入れないと思う」とつぶやくのは、夫と子供二人で暮らす女性パート従業員(55)。周辺のアパートは震災から約二週間で入居募集がなくなったといい、「子供の学校や倒壊したお墓を考えると遠くにも行けない」と切実に訴える。
同様に、仮設住宅に入れるかどうか気をもむ、あるいは既にあきらめて途方に暮れる被災者も少なくない。
小千谷市によると、仮設住宅の募集数は約八百戸。事前調査では需要が約千四百戸に上ったが、市担当者は「相当数のキャンセルを見込んで判断した」という。さらに、対象が住宅応急修理制度を利用しない被災者に限られるため、「家を捨てる」(市担当者)決断を迫る制度となっている。
制度の対象外
それぞれテント、車中泊で息子夫婦や孫と暮らす無職金井勝代さん(62)は「仮設住宅を申し込もうと相談したが、市から『家を補修しては』と言われた」。ただ、被災者生活再建支援制度には世帯全員の年収合計で制限があり、「十分活用できない」と嘆く。
また、無職高橋豊次さん(70)は「家は損壊して住める状態ではないが、全壊、半壊扱いにはならず、応急修理制度の対象にもならない。支援してもらえる全壊や半壊がうらやましい」と頭を抱えている。
支援制度は、一九九五年の阪神大震災後にできた被災者生活再建支援法に基づく。ただ、同法は年収などの制限が厳しい上、「一部損壊」は対象外。県や市は弾力的運用や独自の上乗せ措置に取り組むが、制度のはざまに落ち込む被災者が少なくないのも実態だ。
セーフティーネットの網をどう細かくできるか―。震災はそんな課題を突き付けたといえる。
 |
| 傾いた家を前に「親類とコツコツと後片付けをしたい」と話す82歳の男性=新潟県小千谷市桜町 |
試練の豪雪期
「避難所から人が減るたびに取り残されたと感じる。雪が降ればテントは埋まるし…」と、七十歳代の無職男性は不安を隠さない。
別の避難所の縮小で移ってきたパート従業員大渕幸子さん(51)も「ここも別の避難所に統合されるといううわさもあり、豪雪の中、家からどんどん遠のくのは嫌だ」と焦る。
避難生活者だけではない。もうすぐ避難所を出るという会社員男性(34)も、「大急ぎで家を応急修理したが、雪の重みに耐えられるかどうか」と複雑な表情を浮かべる。家の裏が山のため、崩れるという恐怖感が春の雪解けまで続くという。
豪雨の中で避難生活を余儀なくされる被災者、雪の重さによる家屋被害の不安が絶えない住民たち…。被災地の冬はあまりにも厳しく、そして長い。

 |
| 日赤が開設した緊急仮設診療所。被災者に「すぐに診療してもらえる」との安心感を提供している=新潟県小千谷市の小千谷小 |
「おじいちゃん、けがは軽いわ。心配せんでもええよ」。日赤県支部救護班が小千谷小に到着して間もない十四日午後。日赤が現地に開設した緊急仮設診療所と呼ばれるテントに、柔らかな讃岐弁が響いた。
声の主は、吉沢班長(52)ら医療スタッフ。震災後の家の片付けで頭部にけがをした男性(79)を看護師と共に励ますと、長旅の疲れも見せず手早く三針縫う手術を行った。 独特の症例
現地入りしたのは、吉沢班長や看護師、同支部の職員ら救護班八人と、同病院の山津豊子看護師長(50)ら「心のケア指導員」二人。小千谷小の避難所では、日赤中四国ブロックがローテーションで継続的な支援を行っており、県支部はその一翼を担う。
診療所を訪れるのは、避難所の被災者や、避難所から家に戻った付近の住民が中心。避難生活の疲れや寒さから風邪の症状を訴えるケースが大半で、疲労の蓄積で回復が遅いためリピーターも多い。
体育館に避難している無職高橋薫さん(77)は、「せきが出て周囲に迷惑を掛ける」として受診。診療後、薬を受け取った際に「快方に向かってますよ」と告げられると、ホッと笑みを浮かべた。高橋さんは「いつでも来れるので心強い」とありがたそうに話していた。
夜には避難所内を巡回し、体調不良の兆候がみられる被災者も診療。自炊でレトルト食品などを食べ、原則二十四時間態勢のため診療所内で仮眠した。
臨戦態勢
心のケア指導員は、近くのお年寄りらを訪問したり、路上での声掛けを展開。うち八十歳代の女性は不眠を訴え「睡眠薬を勧められるが、余震で目覚めないことが不安。私がダメなんですかね」と漏らした。指導員は即座に「一度怖い思いをしたら誰でもそうですよ」と助言、すると女性の表情が心なしか晴れた。
ただ、指導員が「お体はいかがですか」「夜は眠れますか」などと声を掛けても、大半の被災者は「大丈夫ですよ」などと気丈に振る舞う。なかには逆に、「帰るまでに大きい余震に遭わなければいいね」と気遣ってくれるお年寄りも。
余震に備え、被災者は枕元に懐中電灯などを置き、すぐ外に出られるジャージー姿で寝るのが一般的。そんな生活状況から、山津看護師長は「今はみんな気が張っています。余震が一段落し、心身とも疲れがどっと来るときが心配ですね」。臨戦態勢から平常時に戻るときこそが、正念場だと打ち明ける。
ジレンマ
救護班が活動した十六日午前までに、診療所を訪れたのは計約三十人。震災発生直後が一日当たり百数十人だったのと比べると、一割を切った。避難者数の減少と、周辺病院の再開が要因だ。
が、吉沢班長は「被災者に『すぐに来られる』という安心感を提供する存在感は大きい」と、肌で感じた意義を強調。周辺の医療機関は再開しているが、待ち時間が長かったり、薬の処方に限定するなど温度差があることも念頭に置いているからだ。
ただ、一方では「本来のかかりつけ医に戻り、日常生活を回復してほしい」(吉沢班長)との思いもある。小千谷小では日赤の救護班派遣は近く撤収の方向で、微妙なジレンマを抱えながら、地域への引き継ぎという最終段階を迎えている。

「役所の中? そりゃあもう大混乱。ボランティアへの対応なんて、それどころじゃない。住民の避難誘導や安否確認、被害状況の把握に精いっぱいのようだった」
阪神大震災の際に二カ月間、ボランティア経験のある横浜市の大工江頭信弘さん(64)は、滞在先の三重から新潟県中越地震翌日の十月二十四日夕、小千谷市入り。経験を生かそうと被災家屋の後片付けにやって来たものの、相次ぐ余震にとても建物に入れる状況ではなかったという。以来、全国から送られてくる物資搬入が主な仕事に。誰の指示もなく、「手が足りないようだったから」作業を買って出た。
窓口は4日後
現地のボランティア受け入れ窓口となる小千谷市災害ボランティアセンターは被災四日後の二十七日、同市社会福祉協議会や小千谷青年会議所などを中心に発足。運営本部は五十人から六十人の体制を敷いた。当初は約三百人、その後も平日で五百人から六百人、土・日曜日には約千人が全国から駆け付けた。
「初期は避難所の実態把握に努めたが、小さな避難所まで物資が行き届かず、反省点が残った」とは、新潟県社会福祉協議会の山田修一さん。相次ぐ余震の影響で建物の中に入れるようになったのは、地震から約二週間が過ぎてから。その間、ボランティアには仕事の内容を制限せざるを得なかったという。
今年、7・13水害を経験した同県。「水害と違って、震災は二次災害の予見が難しい。ボランティアの中には『やることのない人もたくさんいる』と指摘されましたが、安全を第一に考えると、斡旋(あっせん)できなかった」と運営本部の一人は明かす。
需要これから
「余震も収まり、ようやく気持ちの整理がつき始めたころ。これから多くの被災者が家の後片付けを考える時期だけに、仕事を制限した反動でボランティアの数が激減しているのも心配」と、その人は言う。
雨の影響か、十五、十六日に集まったボランティアはそれぞれ三百人ほど。現地のいまの状況や今後、必要となってくる人材やモノをどう、全国に訴え、情報を発信していくか、大きな課題を突き付けられている。
「人に頼ることをよしとしない、この地特有の気質も影響があるのではないか」と、山田さんは指摘する。降雪の時期も近い。一日から延べ十二日間の予定で現地入りしている神奈川県川崎市の塚田夢笙(むしょう)さんは「無理やり入っていくのではなく、自然な形で協力し合えれば」というが、地元のニーズを掘り起こし、ボランティアとどう調整を図るのか、運営本部の力量が問われるのは、むしろこれからといえそうだ。
地元リーダー
小千谷市総合体育館。地震から間もなく一カ月を迎える現在も、五百人余りが暮らす。一時は約三千人が避難し、混乱したが、避難者の中から地元の要望を行政やボランティアに伝えるリーダーを選出。「全くのボランティアで三者の橋渡し役をお願いしたわけだが、結果的に避難所の秩序維持につながった」と、施設を管理する同市教委社会体育課の久保田三知男さん。
地区への立ち入りを制限されている同市東山地区からの避難者、星野春夫さん(55)もその一人。朝四時半、新聞配達員に「ごくろうさん」のあいさつから一日が始まり、午後十一時まで気配りを続ける。「自分たちでできることは自分たちで」と避難者に呼び掛ける一方、若いボランティアにも積極的に声掛け。
「ボランティアには自己満足だけで、夜に羽目を外して被災者に不愉快な思いをさせる人もいるけれど、星野さんのような人がいると自制心が働き、バカはできない」。ボランティアの一人、長岡明徳高一年の篠田真育(まいく)君(16)はそう話す。
佐竹圭一、山下和彦が担当しました。
(2004年11月21日四国新聞掲載)
|