シリーズ追跡

角筆が面白い 〜旧高松藩士の獄中記発見から 3つの謎に迫る

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自分たちの正義訴え

 幕末から明治維新に移る激動の時代に高松藩の家老殺害事件に関与し投獄された旧高松藩士が、紙面をくぼませて文字を書く角筆(かくひつ)を駆使して、獄中での心情を記した小型本二冊(各縦約一一センチ、横一〇センチ、計百二ページ)が高松市内で見つかった。角筆研究の第一人者、小林芳規・徳島文理大教授の調査で明らかになった。全編、角筆による本の発見は世界にも例がないという。筆者は牛窪雅男(一八二七―六九年)。十一代藩主松平頼聡の小姓からスタートし大番頭などを務めた。所属する軍務局の方針と対立していた家老松崎渋右衛門を殺害する事件を仲間ら十四人で起こし服役した。牛窪が角筆に込めた意図は何だったのか。三つの謎から探るとともに、角筆の奥深さに迫った。

文字に隠した真意=筆圧抑え薄く残す

 「此申十二月十二日入監□時因」「心久望田仲□臧」―。
 一冊目の表紙と二冊目の裏表紙に、本文の角筆のくぼみに比べ極めて薄い角筆文字が見つかった=写真、イラスト参照=。これが今回の発見の重要ポイントといえそうだ。
 小林教授によると、一冊目の角筆からは「監」の下の文字が確定できないが、読めるつくりや偏から類推すると「監蔵」となり未決囚を一時拘束する所の意の「監倉」に通じるのではないかと解説。「この申(明治五年)十二月十二日に監倉(蔵)に入った時、そのきっかけ(因縁)で、この角筆の記述を行う」。
 二冊目は、「田仲」は、牛窪雅男にとって十四人組事件の上司であり仲間でもあった堀多仲を指し、「田仲」の下の一字は判読しにくいが、意味から「被」らしい。「臧」は「よみす」と読み「善いとする、ほめる」の意味がある。通釈すると「心に久しく田仲の臧みせらるるを望む」となり「堀多仲の行為(自分たちも)が真に善行であると認められることを私は心に長く希望している」の意になると説明する。
 自分たちの行動に一点の曇りもなかったことの主張といえそうだ。
 「高松藩では口外することさえタブーとされた事件の真相を、あえて筆圧を抑えた薄い角筆に託して残したかったのではないか」と小林教授。
 研究者の一人も「藩主の意向で大っぴらには書けなかったのだろう。藩主に累が及んではいけないという忠誠心の強さを考えると、こうした角筆のかたちを取ったのにも納得がいく」と話す。

殺害事件の背景=勤王対佐幕で激突

 一八六九年(明治二)、高松城内桜の馬場で起きた高松藩の松崎渋右衛門殺害事件は、幕末・維新期に藩の進路をめぐって多くの地方で起きた派閥抗争事件の一つ。親藩の高松藩では尊皇攘夷を唱える少数派の松崎を、佐幕派の軍務局大隊令官、堀多仲ら幹部十四人が謀って殺害したとされる。
 謀議・殺害に加わった十四人組には厳しい取り調べが続き、八人が獄死する中、七一年、東京弁官から判決が下された。知藩事松平頼聡には閉門四十日のほか、十四人組では堀多仲ら二人が士族はく奪の上斬罪、牛窪雅男らは準流十年などに処せられた。
 松崎と十四人組は歴史の激動期に勤王と佐幕という本質的なイデオロギーの違いで衝突を繰り返していた。松崎は六四年、高松藩家老となるが親交のあった水戸天狗党が鎮圧されたことなどに伴い、家老職を解かれ投獄。約三年半後、元号が明治と変わる中、新政府の命令で家老職(執政)に復帰し藩政の改革に当たった経緯がある。
 この浮沈の激しさは、蛤御門の変(六四年)、鳥羽伏見の戦い(六八年)での朝敵事件など高松藩にとって命運を分ける進路決定をめぐって起きており、両者の主導権争いのすさまじさを物語る。
 木原溥幸・徳島文理大教授は「家老から罪人、出獄一転、重役に復帰する劇的な展開の中で、藩内の守旧・佐幕派たちと、あらゆる確執が生まれるのは容易に想像がつく」と話す。
 いずれも当人たちにとっては国家や藩を思い、信じる道であり正義。ただ、よって立つ体制が朝廷中心の国家か、藩中心の独立国家かが違っていたといえそうだ。

なぜ毛筆でないか=藩内タブーに配慮

 牛窪雅男の曾孫に当たり、今回の角筆本の所蔵者で、自身の名前は曾祖父の幼名からもらったという岩太郎さん(74)=高松市宮脇町=は「関係者の間では十四人さん事件と呼び、事件のことは殿様から口止めされていたらしい」と話す。その上で「藩の極秘事項として公然とは記録できなかったのと、書く筆と紙がなかったのでは」と話す。
 実際、同家には「雅男じいさんは獄中で毎日二枚支給されるトイレ用の紙を一枚蓄えておき、茶わんの欠片で思いを書いた白紙の帳面があるから大事にしろ」という言い伝えがあり代々申し送りしてきたという。古いが頑丈な手提げ金庫の底から見つかったことからも、同家で大切にされてきたことがうかがえる。
 なぜ和算なのか。角筆本全体のほとんどを地代勘定や変形土地の面積測定などの問題とその解答が占める。単なる和算を書くなら毛筆で書いても良いはずなのに、なぜ角筆で書いたのか。
 小林教授は、あくまで推測だがと断りながら「角筆本の中に獄中生活に『書』と『算』を習う日課があるとの記述があり、表向きは単なる和算の体裁を取りながら、どうしても残したい思いを紛れ込ませたのではないか」と強調する。

写真は右から▽牛窪雅男の肖像画▽東京上等裁判所による牛窪雅男の放免申渡書▽角筆本の1冊目表紙(右)と2冊目の裏表紙。墨書の部分は出獄後に書かれたらしい▽角筆本の内容は獄中生活の記述(右端)や和算の問題がほとんど=いずれも牛窪岩太郎氏所蔵、県歴史博物館保管
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角筆文「算法通書抜書」
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鉛筆以前の筆記具=無色の文字、私的記録

小林芳規教授
小林芳規教授

 歴史の裏舞台に光を当てた今回の発見。その契機となったのが先のとがった木や象牙、竹で紙にくぼみを作る「角筆」と呼ばれる筆記具で書かれた文献だ。角筆文献の掘り起こしに取り組む角筆研究の第一人者、徳島文理大の小林芳規教授(国語学、広島大名誉教授)によって、闇に消え去ろうとしていた幕末の一人の旧高松藩士の思いがクローズアップされた。

消え去る運命
 小林教授によると、角筆は鉛筆が登場する以前のポピュラーな筆記具だという。鉛筆書きが公文書として認められないのと同様、角筆書きも私的な記録として用いられてきたため、公式記録として日の目を見ることはなかった。鉛筆の普及とともに、やがて角筆の存在すら忘れ去られてしまったようだ。
 小林教授が、角筆の存在に注目するようになったのは一九六一(昭和三十六)年。東京の展覧会で奈良時代に書写された前漢の歴史書に、いくつもの「くぼみ」を発見してから。カタカナのような文字や符号は、訓読するために紙を汚さないよう補助的に“書き込まれた”ものだと理解し、以後の角筆文献調査へとつながっていく。
 平安初期の文人、小野篁(たかむら)を主人公にした「篁物語」に腹違いの妹へ恋文を送る際、「かくひちで書いた」とのくだりもあり、「人に知られたくない文書を書く場合にも使ったのではないか」と推測する。

左は広島県三原市の御調(みつぎ)八幡宮に伝わる角筆(複製)。中央は1771(明和8)年の御書始で学者が用いた角筆(いずれも小林芳規教授所蔵)
左は広島県三原市の御調(みつぎ)八幡宮に伝わる角筆(複製)。中央は1771(明和8)年の御書始で学者が用いた角筆(いずれも小林芳規教授所蔵)

県内から続々
 小林教授による四十年以上の調査で、すべての都道府県で現在までに約三千三百点の角筆文献を確認。時代も奈良から大正時代に及ぶ。
 県内でも二十カ所近くを調査。九三年、丸亀市立資料館所蔵の江戸中期の詩経から、第一号が確認されたのを皮切りに、いずれの調査でも発見されており、二〇〇二年には、東かがわ市水主の水主神社所蔵の大般若経から、平安時代の記述が見つかっている。
 角筆自体も全国で四十本を確認。県内でも九八年に県立文書館所蔵の石井氏文書とともに竹製角筆が二本、多度津町の林家文書の中から木製角筆が一本発見。

歴史の再評価
 角筆は歴代の天皇も愛用。御書始の際、学者が天皇(皇太子)に文字を指し示す道具として用いられたため、後世には長く字指(じさし)と考えられていた。幕末の蘭学者、高野長英(一八〇四―五〇年)が獄中でいとこにあてて角筆で書いた手紙には脱獄の意思表明のほか、その文面から母親に会いたいとの思いが伝わり、人間的な側面がうかがえるという。
 角筆文献の発見例は日本だけでなく、韓国や中国、インド、中東、ヨーロッパなどにも広がっている。そのうち、一四四六年に李朝の世宗が公布した「訓民正音」以前にハングルの原形になったと思われる符号が角筆で発見、韓国の学会で論議を呼んでいる。日本固有の文化として発展したとされるカタカナの起源もその符号、つまり朝鮮半島にあると考えられるなど、国内でも注目されている。

 山下和彦、岩部芳樹が担当しました。

(2004年10月24日四国新聞掲載)


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