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元患者たちの人間としての尊厳は名実ともに回復されたのか。いわれのない差別、偏見は解消されつつあるのか。「ハンセン病を正しく理解する週間」(二十二―二十八日)を機に、庵治町大島にある国立ハンセン病療養所大島青松園を訪れた。らい予防法に基づく国の隔離政策を断罪した熊本地裁判決から二年。外部から隔絶されてきたこの島を訪れる人は増えたが、入所者の高齢化は進み、それぞれに将来への不安を抱える。社会復帰への道のりは険しい。県はこのほど、療養所の実態などについて入所者から聞き取り調査を行った回顧録「島に生きて―ハンセン病療養所入所者が語る」を刊行。青松園で暮らす女性詩人を主人公にしたドキュメンタリー映画も、県などの支援で完成した。ハンセン病の啓発活動の現状、青松園の近況と課題をリポートするとともに、回顧録の一部を抜粋して紹介する。

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| 「ハンセン病フォーラム」で大島青松園入所者との交流活動について発表する庵治第二小児童=丸亀市内 |
「世代が替わっても、ハンセン病の記録は歴史として残るだろう。価値のあるものに仕上げていただき、ありがとうございます」
二十七日、大島青松園を訪れた真鍋知事に県人の入所者が語り掛けた。県が入所者の回顧録「島に生きて」を発刊したことへのお礼だった。
瀬戸内海の孤島への強制隔離、子孫を残させまいとする断種と堕胎の強要、非人道的な園内での重労働…。入所者が園に収容されてから、自由を奪われた環境の中、どんな思いでどのように生きてきたかが回顧録では切々とつづられている。
ある入所者が万感を込めて言った。「『島に生きて』の題名を見て、うれしいやら悲しいやら」。
登場する入所者の多くは本名ではない。匿名も二十三人いる。そのことこそが長く差別と偏見にさらされた苦難の歴史、社会復帰もままならない厳しい現実を映し出す。
県には過去のハンセン病政策の実情を記録した公文書が残っていないという。入所者の高齢化で「事実を書き留めるには今しかない。できるだけ多くの人に会い、生の声をありのままに載せたい」(薬務感染症対策課)と刊行に踏み切った。
「島に生きて」には、入所者の過半数に当たる百二十一人と職員ら七人からの聞き書き(一部投稿を含む)を収録している。県が県ボランティア協会に委託し、主に三十歳代の五人が八カ月がかりで取材に携わった。
A5判で上下巻、計六百九ページ。一千部を印刷し、県内の中高校、公立図書館などに配布した。市販の予定はなく、県は「図書館で閲覧してほしい」としている。
会場を変更
国賠訴訟判決をきっかけに、ハンセン病への県民の関心と理解は加速度的に高まっているかにみえる。
十九日夜、高松市の県民ホール大ホールに詰め掛けた約千三百人は、食い入るようにスクリーンを見つめた。青松園で暮らす詩人、塔和子さん(73)の半生を切り口に元患者たちの生きざまを描いたドキュメンタリー映画「風の舞」の上映会。予想を大幅に超す申し込みが寄せられ、小ホールから急きょ会場を変更した。
二十五日に丸亀市で開かれたハンセン病フォーラム(大島青松園など主催)にも、会場に入り切れないほどの聴衆が詰め掛けた。ひと際注目を浴びたのは、庵治第二小の全校児童五人による青松園入所者との交流活動の紹介だった。
「入所者の皆さんの温かい心に触れ、心の痛みを感じ取れるように」。大島にあり、青松園の職員の子らが通う同小では春は茶会、秋は収穫祭などと、年間を通じて入所者と一緒に過ごす行事を続けている。
かつて有刺鉄線で隔てられ、子供が近付くことはなかった園内に、今はかわいい歓声が響く。
高齢者にも
青松園の理念の一つに「社会に対してハンセン病の啓発活動を行うことを使命とする」とある。
見学などで園を訪れる人は国賠訴訟判決以降、飛躍的に増えている。園側が集計している団体分だけで、二〇〇二年度は四国四県を中心に延べ七十団体、千八百十九人。前年度を二百人以上上回った。
主な来園者は、ハンセン病と言われてもピンとこない小中学生、高校生ら若い世代。不治の病といわれた時代に育った高齢者への啓発は後手に回りがちだ。昨年には県の仲介で老人クラブと入所者との交流会を催し、染みついた偏見の解消に努めている。
青松園は今年になってロゴマークやキャラクターマークを作製。職員がオリジナルのTシャツ姿で見学者の案内に当たるなど、ソフトイメージを前面に打ち出す。
長尾栄治園長(59)は「啓発にどこまでいけば、というゴールは見えないが、一歩一歩踏み出しているという実感はある」と確かな手応えを話している。

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| 大島青松園入所者の回顧録「島に生きて」 |
<昭和の初め、県がらい病患者を探して療養所に強制収容する『無らい県運動』が行われた>
「そういう気配のある人は徹底的に収容されよった。一人病気になったら、全部にうつるからということで。白い石灰を家のぐるり振り回して、囲いをしたようにしてね。私の机とかも一切、焼き捨てられた」(男性)
<職員数を抑えるため、軽症の入所者は園内作業を強制された>
「看護をはじめ、食事運搬、洗濯から火葬に至るまで五十種類、三百余りの作業があったと思う。特に大変だったのは病棟看護。二十四時間体制で、注射なども自分たちでやった。病人を治療棟へ連れて行く時には、一人ひとり背負って行った」(男性)
<結婚生活も人権を無視した扱いをされた>
「戦後すぐのころは夫婦の部屋はなく、普段は男舎、女舎という大部屋でそれぞれが生活をする。夜になると結婚している人は男舎から女舎へ通って行く。通い婚。恥ずかしいものだった」(男性)
<将来を悲観して自殺した人も少なくなかった>
「ここへ来る人はたいてい自殺を考えたことがありますよ。死ねんかった二百人が残っとるんです」(匿名)
<島を出ると、筆舌に尽くしがたい差別や偏見にさらされた>
「高松でラーメンを食べに屋台に入ると『スープがない』と言う。まだ夜の八時なのに。食堂に入っても『ほかに食べるところがあるでしょうが』と追い返された。買い物をしても、代金を受け取るときはうちわを出す。その上に代金をのせる。どうしてそんなに嫌うのかと思った」(男性)
<一九九六年、ハンセン病の元患者を療養所に強制隔離してきたらい予防法が廃止された>
「実際は治っていても、それを認めてもらえない。太鼓判がやっともらえるようになった。肩の荷が下りたような感じ」(男性)
「今まで外に行く時は手袋はめて隠しまわりよった。それがなしになったな。自由になったな。手が曲がっとったって、へっちゃらになった」(男性)
「遅かったという感じですけどね。それでもまあ、法律でしばられていたのが、廃止になるというのは全然、気分からして違いますからね」(匿名)
<二〇〇一年には国賠訴訟で強制隔離の誤りが認められた>
「気持ちが楽になった。おかげでようけ青松園にも来てくれるようになったしね。それまでは『臭いものにはふたをせよ』いう感じやったんを。全国の人が知ってくれたからな」(女性)
「この歳になって、今やったら何でも言えるよ。『手が不自由やから』言うて手を見せれるようになった。世間の目もそういうふうに見てくれるからな」(女性)
「賠償のお金は子供にあげました。苦労をかけた償いです」(女性)
<長すぎた強制隔離の後で社会復帰するのは難しい>
「今でもね、人間としてね、外へ出て生活したい、いう気はあるんですよ。けれどももう、年やから出ていったって仕事もないし、生涯ここで一生終わらないかんな思ったり」(男性)
「せめて十年若かったら。もうぼつぼつ一般社会に行っても老人ホームに入らないかんような年になって、今さら社会復帰いうような気はな」(匿名)
<高齢化で入所者数が減少する青松園。島の将来に不安が募る>
「この島で一生を終わらせてもらいたいです。それだけが望みです」(女性)
「ここで最期まで面倒みてもろうて納骨堂へ入りたい。親の墓に入る気はない」(男性)
<ハンセン病への差別と偏見が解消する日は来るのだろうか>
「ハンセンがなくなるのもそう先ではないと思うわ。後が出んからな。こういう病気の人がおったということ、つらい歴史、悲しい歴史があったということを若い人に知ってほしいわな」(女性)
「やっぱり学校教育やな。話して聞かせて、紙面で教えてあげて、こっちへ連れてくる。実際に見て、話して交流を持って、初めて理解される」(男性)
「一朝一夕になくなることが難しいことは、肌で感じてますからね。時代が解決するんかなあと。子供たちが来るでしょ。次の世代に期待しようと」(匿名)

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| 大島青松園で亡くなった入所者の魂の解放を願う「風の舞」。入所者の減少で園の存続も心配される=庵治町大島 |
大島青松園で亡くなった入所者の遺骨を安置する納骨堂。老朽化のため本年度から建て替え工事が始まっている。築六十六年が経過して初めての建て替えになる。
一九〇七年に開園して以来、国の隔離政策のため島に閉じ込められ、亡くなっていった入所者は二千人以上。らい予防法が廃止された今も、百八十六人の元患者が暮らしている。
「今のまま」
熊本地裁の判決以降、青松園を退所し、社会復帰を果たす元患者が増加している。
判決翌年の二〇〇二年度から、国が退所者に月約二十六万円を支給する給与金制度を設けたのが後押しになった。青松園では同年度に十四人が社会復帰し、前年度の二人を大幅に上回った。
しかし退所したのは、判決以前から長期外泊という形で親族と生活していたなど、もともと園外に生活基盤を持っていた人ばかりという。実質的には社会復帰の道は相変わらず険しい。
県薬務感染症対策課によると、県出身の元患者は青松園の三十七人の他に、五都県の六療養所で計十九人。県の意向調査に対し、全員が「このまま園に残りたい」と回答しているという。
「六十八歳ですけど、社会でも定年というたら六十歳でしょ。手はまひして湾曲して仕事はできんし、いつ病気を併発するか分からんし、健康に自信はないし」
県が作製した入所者の回顧録をみても、ほとんどの人が園外での生活に背を向けている。社会復帰を阻むのは、後遺症による障害に加えて、九十年間の隔離政策でできた社会との高い壁だ。
長尾栄治園長は「入所者は勉強や就業の機会をすべて失ったのに、年を取ってから園外で暮らすのは難しい。何より社会に出る目的を見つけられない」と指摘する。
県も〇二年度に独自の支援策を導入し、退所者に医療費の自己負担分を補助する制度を始めた。国の給付金制度も同様だが、いくら経済的な保障があっても入所者の心配は解消できない。社会復帰の押し付けになってはいけないが、ソフト面の支援策を打ち出すことも求められる。
第二の故郷
入所者の平均年齢は七五・八歳に達し、超高齢化が進んでいる。六十五歳以上が90%近く占め、在園期間は平均四七・四年にも上る。
毎年十人前後の入所者が亡くなり、入所者数は十年前の六割以下に減少した。新しい患者の入所はなく、再入所者が年に数人いるだけ。二十年後には入所者は四十人程度にまで減るという試算もある。
入所者の減少を受け、園内では施設存続に不安が高まっている。他の国立ハンセン病療養所も同様に入所者が減るのは確実で、全国十三カ所の療養所の統廃合は避けて通れそうにない。
統廃合について「国の議論は全くない」(長尾園長)というものの、多くの入所者は公然の問題としてとらえている。
入所者の大島に対する感情は複雑だ。国の隔離政策に怒る一方で、「第二の故郷」と感じる人は少なくない。
老人保健施設やホスピスを島に誘致するなど、青松園存続のためのアイデアも関係者の間で話題に上っているが、現実味は薄く、将来像は不透明なのが実情だ。
五十年以上、青松園で暮らす男性入所者(70)が静かに語った。「こんな年だから、後はもう島で暮らせたらそれでいい」。
ハンセン病 らい菌による慢性の感染症で、皮膚や末しょう神経が侵される。伝染力は極めて弱く遺伝もしないが、戦前は効果的な治療法がなく、顔面や手足が変形するため患者は強い偏見や差別を受けた。戦後、新薬の開発などで治癒する病気になった。国は1996年にらい予防法を廃止するまで、90年にわたって患者の強制隔離政策を続けた。元患者らは98年、隔離政策は違憲として国に損害賠償を求め熊本地裁に提訴。2001年5月の判決は原告側の主張を認め、国に総額約18億円の支払いを命じた。政府は同月、控訴を断念。東京、岡山地裁でも和解が順次成立した。療養所は国立13、私立2の計15カ所あり、4000人近くが入所している。
福岡茂樹、谷本昌憲が担当しました。
(2003年6月29日四国新聞掲載)
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