シリーズ追跡 久米通賢 日本一の測量技氏だった?
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「伊能図」しのぐ精度
 江戸後期、実測による日本地図を初めてつくった男といえば伊能忠敬。教科書にも登場する歴史上のスターだが、測量技術において忠敬を超える人物が同時代の讃岐にいた。久米通賢栄左衛門。大阪市の研究家が先ごろ、文献をもとに通賢の測量器具・地平儀を復元したところ、忠敬が使った器具より精度の高い優れものだったことが判明した。坂出の塩田開発に名を残す通賢は他にも、扇風機や時計、ポンプなどさまざまな生活・産業用具を考案している。没後百六十年。再評価の機運が高まるマルチ科学者・通賢の素顔を追った。

時代の先端 地平儀復元で実証 欧州の新技術をいち早く

通賢の地平儀を復元した沢田平さん。地平儀にはバーニア副尺が採用され伊能忠敬のものより正確な距離が測定できる=大阪市東成区
通賢の地平儀を復元した沢田平さん。地平儀にはバーニア副尺が採用され伊能忠敬のものより正確な距離が測定できる=大阪市東成区

 「これなんかすごいでしょう。日本でも数少ない天文時計ですよ。こっちは連発弓。試してみましょうか」
 久米通賢の研究家・沢田平さん(65)=大阪市東成区=の自宅二階、招き入れられたその部屋には、収集品や自慢の復元作品が所狭しと並ぶ。銃砲類、時計、生活用品、兵器類など多彩だ。
 沢田さんは研究の成果を「形」として残す。しかも、見かけだけでなく実物と同じ機能をもたせる。なぜ、そこにこだわるのか、理由があった。
 「私は学者じゃない。論文などで発表しても認められない部分があるでしょう。だからモノで歴史を証明するしかないんです。形で示せば小さな子供でも理解できるし」と表情を和らげた。

 ●ただものでない
  通賢との出会いは、もう三十年以上も前。
 通賢の開発した銃砲類に興味を持ち、坂出市の鎌田共済会郷土博物館を訪ねたのがきっかけだ。ここには通賢の書簡類、文献類や生活用品、測量機具などが数多く現存する。資料をあさり、調査の手を広げた。
 「この人物は、ただものではない」
 沢田さんの研究心に火をつけたのは、通賢のずぬけた発想力。考案した道具、機器には、いずれも時代の先端をゆく技術やアイデアが駆使されていた。
 それらを復元することで、いつの間にか沢田さん自身が通賢となり、その業績を現代に伝える“案内人”となっていた。

 ●高い技術評価
 沢田さんの復元技術に対する評価は高い。
 伊能忠敬が全国測量で使った地平儀の復元依頼が、大阪市からあったのもその理由から。「正直言って、完成した時には感激しました。当時、これだけの地平儀が製作されていた。じゃあ、通賢は?」。沢田さんの興味は、一気に通賢へと移った。
 しかし、現存する通賢の地平儀は、肝心の目盛りが黒ずんで読み取れない、部品も一部壊れている。野帳類(測量覚書)の数字も判別しにくい。
 「通賢の書簡類には専門的なものが多く、先へ進むためには、測量学の立場からの調査が必要だった」と鎌田博物館の西川桂子学芸員。
 一昨年秋、国立天文台の中村士助教授の協力を得て本格的な調査を開始、一年がかりで復元に成功した。   直径五十五センチの円板の円周には真ちゅう製の目盛り板、中心部には高さ三十九センチのポールがあり、これを回転軸に副尺が目盛り板まで延びる。台座は漆塗りのヒノキ。
 何より大きな収穫は「通賢が日本で初めてバーニア副尺を備えた測量機具を製作した」ことだった。

通賢が高松藩測量に使ったとされる地平儀(鎌田共済会郷土博物館所蔵)
通賢が高松藩測量に使ったとされる地平儀(鎌田共済会郷土博物館所蔵)

 ●バーニア副尺
 通賢の測量機器の多くは欧州製の模倣だが、その技術をいち早く取り入れ、独創的なものに仕上げている。それがバーニア副尺の採用だ。
 沢田さんによると、「目盛りを細分する副尺のシステムが忠敬のものと明らかに違っていた」。角度の一度をさらに細分する「分」の単位が、バーニア副尺によって忠敬のものより、より精密化されていた。
 地平儀は、目標とする地点の方位角を測量し、三角法で距離を算出する機具。忠敬の五分(一度の十二分の一)に対し、通賢は二分(同三十分の一)まで計測できる。「この差が距離の正確さに関係してくる」(沢田さん)ことを示していた。
 通賢の地平儀には「文化三年」と記され、高松藩測量時期と合致している。実際に使ったものであることは間違いない。

 ●忠敬との接点
 通賢と忠敬は同じ時代を生き、接点もあった。
 通賢が高松藩の測量に当たった二年後、忠敬が讃岐測量に入った。その際、通賢が案内したという記録が残っている。しかし、通賢が地図や地平儀を差し出したのかどうかは、想像の域を脱しない。
 仮に忠敬が最先端の測量機器を手にしたと想定するなら、沢田さんは二通りの反応が考えられるという。
 「極めて進歩的な測量器具だったため、使えなかったのか」。それとも、「測量の途中で新しい機器に変えると地図作製に影響する。交換することができなかったのか」。
 残念ながら、通賢の地図は安戸池とその近くの引田町浦の海岸部分しか現存していない。忠敬と比較しようがないのが現実だが、地平儀の精密度から言えば、「確かに通賢が上だと言える」。沢田さんは確信する。
 「当時、通賢の業績を正当に評価できる人材が高松藩内にいなかった。通賢の果たした役割や仕事は数知れない。それをこれから認知してゆくのが、私たちの役目です」と沢田さんは目を輝かせた。

通賢とは 分野問わず多彩な発明

久米通賢の肖像画(鎌田共済会郷土博物館所蔵)
久米通賢の肖像画(鎌田共済会郷土博物館所蔵)

 「想うに翁の生涯は国家の富強に資する処甚だ多くその崇高なる精神卓越せる着眼献身的なる実践はまことに青史に特筆して世人の亀鑑とすべきである」  久米家の墓の近くに建つ通賢の顕彰碑。そこに寄せられた元東大総長・南原繁氏の言葉だ。
 「高松藩のために尽くし、その卓越した創造力から生み出された業績の数々は、郷土史を飾るにふさわしい」と解釈するのが妥当か。

 ●ノーベル賞もの
 通賢(一七七四―一八四一年)は大内郡馬宿村(現在の引田町馬宿)生まれ。幼い頃から「開発創造の力」と「寛容の徳」があったことは、この碑文にも記されている。
 通賢が坂出の塩田事業に携わったのが四十代半ばを過ぎたころ。引田町歴史民俗資料館の徳山久夫館長によると「実は、塩田関係の土木事業は、付随したもの」で、三十代までの通賢研究は、まだ手つかずの部分が多いという。
 通賢は七歳の時に時計を修理し、十九歳で天文学を学ぶために大阪へ留学。二十七歳で高松藩の測量を行い、翌年にはロシア軍に対するため軍艦を設計。火縄式から火打ち石式へ画期的な銃砲改良を行ったのが三十六歳。
 同町内の松村哲夫さん(75)は、自宅に保存する通賢の文献をもとに、小説「奇才、天才 さぬきの久米通賢」を自費出版した。
 「今で言うたらノーベル賞もの。ローカルで終わったのが残念。藩外にパイプがあったら人生は変わっていた」。通賢の仕事が藩内で終わったこと、通賢を研究する専門家が少なかったことが、研究を遅らせた理由だという。

 ●国産マッチも
 通賢研究家の沢田平さんは、研究の中からこんなエピソードを紹介してくれた。
 通賢、伊能忠敬ともに大阪の麻田流天文暦学の門下生。通賢の師匠である間重富に、自ら開発した地平儀を使って記した測量記録を送ったが、冷たい扱い。「実は間家のよりも上をいく地平儀。評価しようがなかった」。中央へのパイプがここで途切れてしまった。
 国産マッチを発明したのも通賢だという。もともとは、銃弾の着火装置の開発から始まった。通賢が書き留めた「生歴木諸品之扣(すてれきしょひんのひかえ)」をもとに、沢田さん自身が実験に成功。完成は天保十年五月十八日、史実に残るわが国最初の国産マッチの発明より十年以上も前のことだった。

 ●大きい人間規模
 「まだ調査の進んでいない書簡類も多く、その中から通賢の人間関係を探るのも興味深い。人間の規模が大き過ぎて計り知れない部分もある」と鎌田共済会郷土資料館の西川桂子学芸員。
 鎌田博物館は四月一日、リニューアル開館する。長期研究者のための研究室も新たに設け、通賢の本格的な研究をサポートする。
 「多彩な才能を発揮した通賢にとって専門分野はいったい何なのか。今の段階では、それを探るのは難しい」。
  徳山館長は、それが通賢の魅力でもあるという。通賢の実像を探り出すには、まだまだ時間がかかりそうだ。

インタビュー 国立天文台助教授・中村士氏

まだ残る新発見の期待

中村士氏
なかむら・つこう 東京大大学院修了。国立天文台の前身である東京大付属東京天文台に入る。専門は太陽系天体力学。天文学史の研究にも力を入れる。東京都出身。57歳。

 ―久米通賢に興味をもったきっかけは。
 中村 通賢が天文測量をやっていたことは天文学史の専門家にはある程度知られていたが、どのような測量器具を使っていたかを調べた人はほとんどいない。私が通賢を知ったのは沢田さんの紹介だが、調べるうちに、当時の測量技術では測れないような細かな測量データがあることが分かった。

 ―その測量器具の一つが沢田さんが復元した地平儀ということだが、当時、日本で使われていた地平儀と何が違うのか。
 中村 通賢はヨーロッパで主流だった「バーニア副尺」を使った地平儀を用いている。しかし、当時の日本では「対角斜線副尺」という旧式技術を使った地平儀が主流で、伊能忠敬の全国測量もこの旧式器具を用いている。通賢が高松藩の命を受け讃岐測量を始めたのは一八〇六年。日本の天文学史ではこれまで、バーニア副尺が使われ始めたのは幕末ごろとされている。これは新たな発見だ。

 ―バーニア副尺について少し説明を。
 中村 副尺とは本尺の最小目盛りの端数を正確に読み取るための装置(補助尺)で、バーニア副尺は「ノギス」のようなものだ。対角斜線副尺はあまり数学の素養がなくても使い方は分かるが、バーニア副尺は比例計算を応用したもので、だれもが理解できる装置ではなかった。

 ―当時の学者たちはバーニア副尺の存在を知らなかったのか。
 中村 知らなかったわけではない。が、当時日本の天文測量をリードした幕府天文方や通賢の師である大阪の天文学者間重富も、その原理がなかなか理解できなかったようだ。バーニア副尺は航海用具の「オクタント」(八分儀)にも使われ、既にオランダから輸入されていたが、それを使った地平儀は日本にはなかった。通賢はオクタントのバーニア副尺を見て、その優れた機能を直感的に理解し、さらには独自に工夫して地平儀などの測量器具に応用した。通賢は日本で初めてバーニア副尺を製作し、測量に活用した人物だといえる。

 ―忠敬は通賢の測量から二年後に讃岐に来た。通賢の技術が何か影響を与えたとは考えられないか。
 中村 通賢が忠敬の案内・接待役として測量に同行したことは忠敬の測量日記に書いてあるが、通賢の測量技術や地図について話し合った形跡は残念ながら見当たらない。

 ―通賢も忠敬もその測量技術は同じ麻田流天文暦学の流れをくむ人物だが。
 中村 同じ測量技法を学んではいるが、忠敬はいわば正統派。師匠の教えを忠実に守るタイプ。通賢は教わった技法をそのまま使わず、自分で工夫して新たな技術を創造した。

 ―それは通賢の才能ということか。
 中村 そうだと思う。通賢は新しい技術や装置を開発することには熱心だが、それを使って何かするということには関心がなかったようだ。商品化して金儲けしようという意識もなかったのだろう。基本的に彼は優秀な技術者。私は非常に独創的な発明家という印象を持っている。

 ―もし、通賢の技術が広く知られていたら天文測量の歴史は変わったのか。
 中村 忠敬にしてももっと能率のいい測量ができただろうし、同じ麻田流の門下として、忠敬の全国測量の一部を手伝い歴史に大きく名を残すことも十分あり得た。バーニア副尺が日本に普及したのは通賢の開発から五十年後。時代の針は早まったかもしれない。

 ―通賢に関してまだ研究する余地はあるのか。
 中村 通賢が残した文献には、地平儀や象限儀以外にもさまざま測量装置を作ったと思われる詳しい図面がある。断片的な観測記録も残っており、歴史に新たな一ページが加わる可能性はまだある。地元の研究者ももっと通賢のことを調べてもらいたい。新たな発見があるはずだ。

 古田忠弘、宮脇茂樹が担当しました。

(2001年1月29日四国新聞掲載)

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