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無言館は教える

2009/08/16

国家観不在の選挙戦

 じりじりと照りつける日差しと蝉(せみ)しぐれの中を、ことしもまたあの美術館を訪れた。上から見ると十字架に見えるという不思議な形の建物の静寂の中で、この国の来し方行く末を考えた。長野県上田市郊外にある戦没画学生の遺(のこ)した絵を展示する「無言館」。絵を見ながらほとんどの人が泣いている美術館である。

  この美術館ができてから12年。大学の教壇に立つようになってからは、毎年夏、10人前後の学生を連れて訪れる。学生たちにはどこへ行くのかいっさい知らせずに美術館へ。1時間後に出てきた学生たちの目はみな赤い。戦争が歴史になってしまっている若者たちにも、画学生たちの絵は強烈なメッセージを伝えてくれるようだ。

  いま生きていれば80歳代半ばの東京芸大などの画学生たちが、家族や恋人、郷里の風景などの絵を遺して戦場に赴く。生きて帰れないことを覚悟しながら、恋人のヌードを描き、帰ってきて仕上げをする、とたった青年。戦争の記憶の風化とおなじような速度で、絵も傷んでゆく。

  将来、間違いなく名のある画家になっただろうと思わせるような素質を感じさせる絵もあれば、幼さの出ている絵もある。しかしながら、売るために描いた絵、あるいはコンクールでの入賞を目的にして描かれた絵は1枚もない。数えられるほどしか残されていない時間の中で、もっとも愛する対象に向かって、命を削りながら描いた絵ばかりである。

  召集令状を受け取ってすぐに描いたという風景画は、風にそよぐ木々と土の道、そして夕方なのかいくらか暗い空だけのさびしいものである。だれかに見せるためでなく、画家をめざした自分が、たしかに存在したということを確認するために、また家族や友人にその痕跡を残すために描いたものであろう。

  すべての絵に悲しい悲しいドラマがある。彼ら学生たちだけでなく、戦争で死んだ人々にはすべて同じような悲劇がつきまとっている。絵という痕跡を残すことができただけでも、戦死通知の紙以外に何も残っていない人々よりも恵まれているといえるのかもしれない。いつの時代でも、どの国においても、戦争はまるで蟻(あり)を長靴で踏みつぶすように人を殺す。

  終戦1週間前にフィリピンで命を落とした画学生、妻が妊娠したことを戦地で聞き、大いに喜んだのもつかの間、お産の1カ月後に妻が亡くなり、その翌年、子供の顔を見ることもなく逝った画家の卵。「権力」とは殺人装置を握ることと論理の世界ではいうのだろうが、何のために無駄死にしなければならないのか。広島、長崎、そして終戦記念日と続く猛暑の季節に、いつもそう考える。

  その猛暑の季節に衆議院総選挙。何のために、何を争っているのかよくわからない。税制がどうだとか財源がそうだとか、あるいはバラマキ批判合戦だとか、スーパーマーケットの安売り競争のような騒がしさだが、少しも心に響いてこないのはなぜなのか。次の世代にどのような国を引き継ごうとしているのか、守るべき名誉とは何なのか、そういう大きな政治がまったく見えてこない。

  自民党も民主党も、なぜ、戦争は絶対にしないといわないのか。核武装は将来にわたっても絶対にしないとなぜいわないのか。米国のオバマ大統領が「唯一の核兵器使用国として」の責任を強調するなら、「唯一の被爆国」として日本がなすべきことはたくさんあるはずである。なぜ、そのメッセージが伝わってこないのか。

  マニフェストの先にあるもの、すなわちどのような国家、どのような社会を創(つく)るために何が必要なのかという目標なるものは、依然、視界不良である。自民党が政権の座にしがみつこうとしているのは、何をするためなのか。何を守ろうとしているのか。一方で政権交代を唱える民主党は、政権の座に就いて何をするのか。総選挙は政党や政治家のために行うものではない。

  国民のために何をするかについて審判を仰ぐために行うものである。そう考えれば、大事なことは細かな話よりは、大づかみの国家観がどうしてもかかせないのである。麻生首相が総理の座にこれから先も居続けたいと考え、鳩山民主党代表が総理になりたいという意欲はともに伝わってきた。あなたがた2人は、この愛しき日本のために、何をしてくれるのか。それを成し遂げるために命を捨てるほどの覚悟があるのか。残念ながら、そこがさっぱりわからない。

  (早稲田大学大学院教授、日本経済新聞客員コラムニスト)

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