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教育の原点

2008/04/21

「なきみそ先生」にあり

 「おなご先生の名は大石久子。湖のような入り江のむこうの岸の、大きな一本松のある村の生まれである。岬の村から見る一本松は盆栽の木のように小さく見えたが…」。土庄港で乗ったタクシーに頼んで竹生の一本松から田浦の分教場まで走ってもらった。

 「二十四の瞳」で何度も登場する場所である。岬はすぐ目の前に見える。湾沿いに続くくねった道は七、八キロにもなるが、その距離感がこの小説で重要な役割を果たしている。小説の冒頭にある「農山漁村の名がぜんぶあてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村」はいまはオリーブ畑が続く。舞台となった昭和初期もたゆとう海は同じように青かったに違いない。

 映画を見たのは昭和三十年ごろ、山形県の小学校の四、五年生のころだった。映画を見て泣いたのは、これが最初だと思う。桜の木の下で先生が十二人の子供たちと遊ぶ。桜の季節にはいつもあの場面を思い出す。白黒映画のはずなのに、記憶の中の桜には色がついている。そして全編に流れるたくさんの歌。

 「仰げば尊し」から「アニー・ローリー」「村の鍛冶屋」「ふるさと」「七つの子」「あわて床屋」「朧[おぼろ]月夜」「春の小川」「荒城の月」「浜辺の歌」「庭の千草」…。これらの歌をいまの子供たちは知らない。「身を立て名をあげ、やよ励めよ」というくだりのある「仰げば尊し」という名曲を、戦後日本は出世主義として退けてきた。

 私が教壇に立つ大学の学生たちに「二十四の瞳」のことを聞いてみた。「聞いたことはあります」という学生はいたが、読んだり映画を見たと答えた学生はいない。大石先生は「なきみそ先生」と呼ばれるぐらいよく泣く。先生が教え子のために泣く。ここに教育の原点があると私は思う。学力や知識は自分で学べる。でも、先生が自分のために喜んでくれたり泣いてくれるということは、いつまでもいつまでも心に残るものだ。

 私自身にもそういう経験がある。先生が授業中にみんなの前で私の作文を読んでくれて「きっと将来、作家になるだろう」と言った。振り返ると、その一言がジャーナリストへの道へ進ませたのではないかと思う。その逆にダメだと烙[らく]印をおされたら、どんな人生になっていただろうかと考えると背筋が寒くなる。

 小説の最後の場面。失明したソンキこと磯吉が一本松で撮った記念写真を手にし「この写真は見えるんじゃ。な、ほら、まん中のこれが先生じゃろ。そのまえにうらと竹一と仁太がならんどる」と一人一人を指さす。ずれたところを指しているのだが先生は「『そう、そう、そうだわ。そうだ。』あかるい声で息を合わせている先生のほおを、なみだのすじが走った」。

 軍人になりたいと胸を張る教え子が「先生、軍人すかんの?」と聞く。「うん、漁師や米屋のほうがすき。」「へえん。どうして?」「死ぬのおしいもん。」「よわむしじゃなぁ。」「そう、よわむし。」次の文章からは作者壺井栄の叫びが聞こえてくるようだ。「その可憐なうしろすがたのゆくてにまちうけているものが、やはり戦争でしかないとすれば、人はなんのために子をうみ、愛し、そだてるのだろう。砲弾にうたれ、さけてくだけてちる人のいのちというものをおしみかなしみとどめることが、どうしてしてはならないことなのだろう」。

 たった一人の三時間ほどの小さな旅だったが、密度の濃いすばらしいものであった。戦前の寒村の分教場と都会の大学とを比べることはできないが、それでも教壇に立つ身として大石先生の気持ちが少しばかりわかるような気がする。一緒に涙を流してやることはできないが、一人一人が、世の中に何か貢献してくれるような人物になってほしいと思う。「まっしぐらに目標へ向かうよりも、曲がりくねった道を道草をくいながら歩く道のほうがいい。すみれやたんぽぽは高速道路には咲いていない」などと話しているが、さてどこまで思いが伝わっているだろうか。

 港で名物のうどんをかき込んで高松行きの船に飛び乗る。十二人の子供のうち、三人が戦死、病死が一人、行方わからず一名。残りの生徒たちはどういう人生を送ったのだろうか。小説であるということも忘れて、そんなことを考えていた。どんどん小さくなっていく小豆島。あの子供たちが修学旅行でやってきた高松港は、あっという間であった。

(早稲田大学大学院教授、日本経済新聞客員コラムニスト)

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