プロローグ

「楽園」は失われたか

近代化のうねりの中で

 二十世紀最後の年が明けた。

 穏やかな瀬戸内海を、観光船「咸臨丸」が滑ってゆく。黄金に染まる水面にくっきりと浮かび上がるシルエット。その向こうに、近代日本の夜明けの海に出帆した塩飽の男たちの残像が重なって見える。

 一八六〇年。「他州に並ぶものなし」とうたわれた操船技術を請われ、塩飽の島々は三十五人の水夫を咸臨丸に送り出した。

波静かな瀬戸内海を進む観光船「咸臨丸」。140年前、同じ名を持つ蒸気帆船に塩飽の水夫たちが乗り込み、太平洋を渡った
波静かな瀬戸内海を進む観光船「咸臨丸」。140年前、同じ名を持つ蒸気帆船に塩飽の水夫たちが乗り込み、太平洋を渡った

 長い鎖国の眠りから覚めた日本が初めて派遣した外交使節。水軍の血を遺伝子に持つ男たちは太平洋の荒波を切り抜け、日米修好の第一歩をしるした。

 <咸臨丸は、アメリカ建国史のメイフラワー号のように、日本近代史のあけぼののなかを、一個の人格に似て息づいている>。司馬遼太郎はそう評している。

 生死をかけた航海に塩飽衆を赴かせたのは瀬戸内海にはぐくまれた海人集団の誇りか。幕府の恩顧にこたえる義務感だったのか。彼らの胸中を読み解くすべはほとんど残されていない。ともあれ、讃岐の水夫たちが東と西の歴史的出合いに立ち会った。その事実だけは揺るぎなく刻まれている。

 幕末維新。咸臨丸渡航と前後して瀬戸内海も異文化との「出合い」を経験した。多くの欧米人が、点在する無数の島を「モザイク模様の宝石」とたたえ、「耕して天に至る」段々畑の精緻(ち)に驚嘆している。

 瀬戸内海を一つのまとまりを持つ多島海と発見した彼らは、風景の美しさとともに、勤勉に立ち働く島の人々にも賞賛を惜しんでいない。自然と人の営みが溶け合った瀬戸内海。西欧のまなざしはそこにアルカディア(理想郷)を見た。

 西洋との「出合い」で光を放った瀬戸内海と島びとたち。だが、その後、自らを照らし出した西欧文明という名の近代化と工業化のうねりにのみこまれ、光彩は急速に薄れていく。島は歴史の皮肉を体現する役回りを与えられた。

 「島にトンネルを通し、道を巡らせよ」と民俗学者宮本常一が説いたのは昭和三十年代後半。国を挙げて高度経済成長に突き進み始めたころだ。島びとの貧窮に寄り添った宮本は「島固有の文化と環境の破壊」を案じながら、開発を提唱せざるをえなかった。そして今、島は高齢と過疎にあえぎ、海人文化は博物館と歴史書で扱われる遺物になろうとしている。宮本の懸念だけが当たったように見える。

 世紀末。次の百年を見通す希望を持ちたいと願いながら、私たちの多くが不安と閉塞感にさいなまれている。二十世紀とはいったい何だったのか。その問いはとりもなおさず、悲しいまでの「負の遺産」を抱えた島が発する問い掛けでもある。その一方で、取り残された島にこそ本当の豊かさがあると、光に目を向ける動きもある。

 「楽園」は既に失われてしまったのか。それとも新しい輝きを帯びて再生するのだろうか。

 咸臨丸と塩飽の海人たちの航跡は、答えを探す足掛かりになるのかもしれない。激動の百年へ助走を始めた維新前夜にひとまず時計の針を戻してみよう。

海に息づく進取と伝統

 何も過疎や高齢化ばかりではない。歴史的に見れば、瀬戸内海の島の暮らしは、自由や自治、国際化などを含め、陸域をリードしてきた。島は私たちの"縮図"と言われるゆえんである。なのに、陸域の人間は、島を知らない。意識して遠ざけてきた気配すらある。香川には、外周〇・一キロ以上の島が百十二あり、うち二十五が有人の島。が、すべてを知っている読者は、ほとんどいない。新瀬戸内海論の取材班は、今年一年、ここに住む島人たちの二十世紀が、どんな意味を持っていたのかの解明に挑む。新世紀の私たちの生き方に示唆深いと考えるからだ。手始めに、香川の海域にはどんな島があり、そこにはどんな話の糸口があるのかを概観した。

伝統の島

桃太郎の舞台で一躍脚光浴びる

鬼のすみかだったとされる大洞窟。実際は鎌倉時代の石切り場跡という説が有力=高松市女木島
鬼のすみかだったとされる大洞窟。実際は鎌倉時代の石切り場跡という説が有力=高松市女木島

 高松市の北約八キロに浮かぶ女木島。この島が「鬼ケ島」になったのは昭和初期。郷土史家の橋本仙太郎が女木島を舞台にした桃太郎伝説を発表したことで、一躍脚光を浴びた。

 伝説では、その昔、瀬戸内海を荒らし回った海賊を征伐した孝霊天皇第八皇子・稚武彦命(わかたけひこのみこと)が桃太郎。お供の犬は備前の犬島、猿は綾南町の猿王、キジは五色台の雉ケ谷の出身の豪族。桃太郎とともに鬼を退治し、がい歌を上げたのが香西の勝賀山とか。島内には、鬼のすみかだったとされる大洞窟や、鬼に関する資料を集めた「おにの館」などが整備され、伝説の島をPR。バブル絶頂期には「島をリゾートの一大拠点に」という開発計画も浮上したが、バブル崩壊とともに立ち消えとなった。

離島にあらず

振興法の適用外れる

 県内二十五の有人島の中で、基盤整備などで優遇措置が受けられる離島振興法の適用から外れた島が四つある。直島と大島、小豆島、それと小豆島のすぐ北側に隣接する沖ノ島だ。

 なぜ、外れたのか。確かな資料は残ってないが、「直島は三菱鉱業(現三菱マテリアル)と他地域との線引きが難しく指定の支障に。大島は国立療養所関係の補助で指定の必要がなかったのでは」と県地方課。

 小豆島は、離島イメージとはかけ離れたその存在が、「果たして島なのか陸なのか」と検討に当たった学者の首をひねらせ、結局、「陸」として扱われる羽目になったといわれている。

 しょうゆやオリーブ、そうめんなどの産業が根付き、指定が行われた昭和三十年代は、映画「二十四の瞳」の大ヒットで観光ブームにわいた小豆島。単純に「島」とはいえない輝きを放っていた。が、今はその観光客にも陰りが見え始め、島の産業にもじわじわと不況の波が押し寄せている。

井島

南と北で違う名称

 「いしま」と呼ぶが、南北で文字が異なる珍しい島。島の中央部にある石島山の尾根を境に北が石島(岡山県玉野市)、南が井島(直島町)。つまり香川、岡山両県に分断された島だ。

 県境は一七〇二(元禄十五)年、幕府の裁定で決まった。決め方は、タル流しだったと伝えられている。ちなみに、人口は岡山側に集中し、香川側に人は住んでいない。

豊島と直島の因縁

好対照の選択の果て

製錬所の導入を選択した直島には、経済的発展をベースに、豊島にないアートが生まれた
製錬所の導入を選択した直島には、経済的発展をベースに、豊島にないアートが生まれた

 豊島と直島。わずか五キロほどの瀬戸を隔てて東西に並ぶこの二つの島ほど、「えにし」を感じさせながら、時代の波にほんろうされ続ける島はない。

 直島を経済的に自立させた三菱鉱業の製錬所は、大正七年、殖産興業の時代に開設された。当初は豊島につくられる予定だったが、島民が激しく反発し、直島に移った経緯がある。

 時は経て、高度成長の時代。直島は、失った緑の代わりに、現代建築の粋ともいえる建物群などを得、緑を守った豊島は、その緑陰をシュレッダーダストという「時代のごみ」で埋めた。

 平成不況の今、その処理を今度は直島が「島の活性化」を理由に、引き受けるかどうかという局面に立たされている。両島は、折々の選択が異なれば、互いに相手の立場になっていておかしくない関係にある。

 何が両者を分けたのか。好対照の選択の背景に、象徴的な「島びと20世紀」が見えてくる。

人名

秀吉の時代から自治

人名の代表が塩飽諸島の政務を執った勤番所。咸臨丸の水夫の航海日誌なども展示されている=丸亀市本島
人名の代表が塩飽諸島の政務を執った勤番所。咸臨丸の水夫の航海日誌なども展示されている=丸亀市本島

 大小二十八の島々からなる塩飽諸島。ここにかつて大名、小名に対する第三の領主として、人名(にんみょう)と呼ばれる船方衆がいた。豊臣秀吉の時代、海上輸送などの功労によって船方六百五十人に千二百五十石の領地が与えられ、自治を認められたのがその始まり。

 本島、与島、櫃石島、牛島、広島、手島、高見島は塩飽七島と呼ばれ、明治まで続いた人名制の間、四人の年寄りが交代で全島の政務を執った。その中心となったのが本島の塩飽勤番所だ。

 操船技術に優れた人名は、幕府の御用船方を務めていたことから、江戸末期に渡米した咸臨丸の水夫にも選ばれた。

 勤番所跡には、秀吉・家康らから与えられた朱印状などとともに、渡米した塩飽水夫の航海日誌や米国から持ち帰ったガラス器などを展示し、「人名の島」の輝きを今に伝えている。

大クス

島の神木、樹齢1200年

樹齢1200年を超えるといわれる大クス。島民は神木として大切にしている=詫間町志々島(高瀬町の北野敦夫さん提供)
樹齢1200年を超えるといわれる大クス。島民は神木として大切にしている=詫間町志々島(高瀬町の北野敦夫さん提供)

 詫間町志々島のシンボルは、樹齢千二百年以上といわれる大クス。県指定の天然記念物で、根元の周囲は十二メートルを超える。枝の広がりは二千五百平方メートルにおよび、周囲三・八キロの小島には似つかわしくないほどの大樹だ。

 かつて枝を切り落とした島民が重い病気になったため、「大クスのたたり」といわれ、神木として保護されてきた。根元には小さな社がまつられ、枝を切ることはもちろん、登ったり、近寄ることもなかったという。

 一時は千人を超えた島の住民も現在はおよそ五十人。ほとんどがお年寄りで年々その数が減っている。大クスは島の移り変わりを、どのように見ているのだろうか。

イリコ

全国ブランドに

昔ながらのイリコの天日干し。機械化が進み、こんな風景も少なくなった=観音寺市伊吹島
昔ながらのイリコの天日干し。機械化が進み、こんな風景も少なくなった=観音寺市伊吹島

 観音寺市沖に浮かぶ伊吹島は、「イリコの島」とも呼ばれる。伊吹ブランドのイリコは全国的にも有名で、かつてはこの地域のイリコ販売額が日本一になったこともある。

 昔ながらの手作業、天日干しは影をひそめ、現在はほとんどの工程が機械化されている。船から直接ホースでカタクチイワシを吸い上げ、すぐさま海水で煮て乾燥する。人間の手が入るのは最後の選別程度。地元の人は「これだけ機械化された加工場は他ではない」と胸を張る。

 だが、自慢の施設もここ数年は不漁でフル稼働することがほとんどない。漁獲量の大半をカタクチイワシが占めるだけに、島の経済も停滞が続く。このため、資源管理の一方で、養殖やマイワシ漁などイリコ依存から脱却しようとする動きも見え始めている。

島でなくなった島

写真

 瀬戸大橋の橋脚になった島より20年も前に、島でなくなった島がある。坂出市の瀬居(手前)沙弥(右)両島だ。番の州の埋め立てで地続きになった2つの島は、便利さと幸福がセットなのかどうかを私たちに教えてくれる格好の素材でもある。写真は昭和43年、県撮影。

茶がゆ

先人の知恵で「満腹感」

コンコを添えた正統の茶がゆ=北野敦夫さん提供
コンコを添えた正統の茶がゆ=北野敦夫さん提供

 高見、佐柳、岩黒、志々、粟島など塩飽の島々に残る茶で炊いたおかゆのこと。島によって呼び方も少しずつ異なり、例えば、志々では「ちゃがえ」、高見では「ちゃがい」などと言う。

 「『耕して天に至る、それ貧の表れ』なんて言われるでしょ。島では米がふんだんに食べられなかった。いかにして少ない米で、満腹感を得るか、これは先人の生活の知恵の結晶なんです」とは、志々島生まれの元教員北野敦夫さん(68)=高瀬町下勝間=。

 茶袋に入れたかたまり茶を煮立て、米にソラマメ、ササゲ、モチ(かんのめ)、サツマイモなどを加え、煮えるまで炊くというのが、北野さん直伝の調理法。「志々の名物、茶がえにコンコ」と言われ、熱い茶がゆをフーフーしながら、タクアンを添えて食べるのが最高という。

 貧しさが生んだ食べ物だが、近年では成人病予防食などとして注目されているという。時代によって価値が大きく変動した島の暮らしを象徴するものといえようか。

百々手祭

「福と春」を呼ぶ風物詩

 一本の矢に一年間の家内安全や豊漁の願いを込めて射る弓神事。櫃石島の百々手は約六百年の歴史を誇る伝統行事で、毎年一月、島の氏神である王子神社境内で開催。瀬戸内に春を呼ぶ風物詩として親しまれている。

 祭りに使う大的は、約二メートル四方。白地に墨で大小三十三個の丸印が描かれ、それぞれが神を意味する。かみしも、はかま姿の射手は十一人。宰領の「ようござる」の掛け声とともに、射手は「王子権現」「三宝荒神」などと唱えながら二十メートル先の的を目掛けて矢を放つ。

 詫間町の生里・大浜・粟島とともに県無形民俗文化財に指定されている櫃石島の百々手祭。昭和六十三年の瀬戸大橋開通で島は"陸続き"となり、人々の生活も様変わりしたが、祭りには島の伝統文化が今もしっかりと息づいている。

(2000年1月1日四国新聞・第3特集 掲載)