漁村留学 野忽那島

第4部 視線は高く7

里親方式で学校を存続

 漁港を中心に百三十世帯が寄り添うように暮らす愛媛県中島町の野忽那(のぐつな)島。昼間は年寄りの姿しかない島の路地は放課後、子供たちの遊び場に一変する。今のはやりはバスケット。小学生も保育園児も一緒になってシュートを放つ。ゴールは底が破れたたも網だ。

 「島の子は元気がいいでしょう」とは、干物を手にしたおばあちゃん。「でも小学生の半分は都会などからの留学生なんよ」。

学校は文化の中心

 松山から高速艇で三十分。野忽那島は中島町の六つの有人島のうち最も小さいミカンと漁業の島。県内でいえば佐柳島ほどの過疎の島だが、島民が里親になり都会の小学生を受け入れる「シーサイド留学の島」として全国に知られている。

 留学制度がスタートしたのは昭和六十三年。三十三年に二百二十四人を数えた児童数は、六十年には七人にまで激減、加速度的に進む子供の減少で学校の存続が危ぶまれた時期だった。

 「こんな小さな島では学校は文化の中心。学校が消えると地域の活力も消える」

 島の将来に危機感を募らせたのは当時のPTA会長でシーサイド留学実行委員長を務める内藤久司さん(53)。そんな時、目にしたのが雑誌に載っていた山村留学の記事だった。

 PTAや地域の役員が中心となり、受け皿となる里親を探して一軒、一軒説得して回った。資金もなければ、子供たちが来てくれるあてもない。まさに手探りの出発だったが、「島全体で学校を支えようという熱意だけはあった」と内藤さん。その熱意が十三年も続けてこられた秘けつという。

 里親には月五万円の委託料が入るが、食費を除くとほとんど残らない。掃除や洗濯、しつけ、宿題の手伝い…。その仕事のほとんどを里親のボランティアに頼っているのが現状のようだ。

 漁協に勤める前田一豊さん(48)は、これまで七人の留学生の里親を務め、今年も香川からの留学生を預かるベテラン里親。だが今でも苦労は絶えない。

 「二倍以上の愛情で接しているつもりだが、どうしてもわが子より留学生に偏ってしまう」と反省しきり。「でも、自分の子供が増えたような喜びはなかなか味わえない。留学生との関わりは私の宝物です」。

一人ひとりが主役

 発足時からこれまでに島を巣立った留学生は、地元組のそれを上回る五十六人。出身地は地元愛媛のほか東京や大阪、福岡、沖縄など十四都府県におよぶ。現在は複式学級二クラスで一・三年二人、四・五年三人。うち、四年生の女児二人が留学生だ。

学校帰りの子供たちに声をかける島の里親。ここでは都会から来た留学生も島を支える大切な一員だ=愛媛県中島町の野忽那島
学校帰りの子供たちに声をかける島の里親。ここでは都会から来た留学生も島を支える大切な一員だ=愛媛県中島町の野忽那島

 「島の子供は競い合うことが少ないが、留学生が来ることで互いに刺激し合い、積極性が芽生える」と野忽那小の田井良子校長。

 ボートやカヌー、磯遊び。留学生たちも豊かな自然、地域との温かいつながりの中で、都会とは違った忙しい日々を過ごしている。「ここでは一人ひとりが主役。いや応でも自信がつきますよ」。無論、不登校やいじめなどとは無縁だ。

 「でも、一番喜んどるのは島の年寄りや」とは前田さん。里親を含め保護者はわずか三軒だが、運動会や学習発表会などは毎年、島民の半数近くが参加する大イベントになる。「子供の声を聞くとこっちまで若返る。いくら年を取ってもわしらは野忽那小のPTA会員じゃ」。島の年寄りたちは胸を張る。

 だが、そんな野忽那にも陰りが見え始めている。高齢化率は今年六〇%を超え、里親のなり手は減少の一途。多いときには年に十人もいた留学生もここ一、二年は伸び悩んでいる。

全島民の願い

地図

 「里親が自分の身を持て余すような状態やからね」と内藤さん。スタート時、六十歳だった里親も、はや七十過ぎ。島では里親に変わる寮方式や、空き家を利用した家族留学などの新たな方策を模索している。

 今年六月、島に一つの"事件"が起こった。昨年、町が立ち上げたホームページを見たという留学生が東京からやって来たのだ。「初めてですよ。やっぱりインターネットはすごい。海外からも問い合わせがきよる」と笑顔を見せる内藤さん。「廃校になると後継者が戻ってくる道が閉ざされる。学校だけは守りたい。それは全島民の願いです」。