大往生 沖家室島(下)

第4部 視線は高く12

隣人に感謝、穏やかな死

 月遅れのお盆のころ、沖家室の人口は十倍にも膨れ上がる。島の出身者や家族の里帰りで「人と車の重みで島が沈む」といわれるほど。で、付いた名前が「盆に沈む島」。島は一年ぶりの交歓の場になる。

 二晩続いた盆踊りの翌朝、浜では流れ灌頂(かんじょう)が営まれていた。ベニヤ板で作った小さな船に卒塔婆(そとば)や供物を乗せ、先祖の霊を彼岸に送り出す。静かに手を合わせる老若男女。念仏を唱える声が潮騒のように入り江に響いた。

小枝が折れるように

 またの名を「念仏島」。沖家室は浄土信仰の篤(あつ)さで知られ、島全体が泊清寺の檀家だ。

 山の中腹にある寺の墓地に立つと、周防の海が目の前に広がる。そこは生きる糧を得てきた恵みの世界であり、漁師の命を数知れずのみこんだ死の世界でもある。島では生と死がしっかりつながっているようにみえる。

 「年寄りばかりのここでは葬式が日常行事。死はいつも身近にあります」と住職の新山玄雄さん(49)。「人に迷惑をかけず、小枝がぽきっと折れるように死ぬ。それが島の人の願いですね」。

 去年、九十歳のおばあちゃんがぽっくり亡くなった。質素な日常をしのばせるように、きちんと片付いた部屋には必要最低限のものしかない。弔いに駆けつけた新山さんは仏壇に遺書を見つけた。「ストーブはこの人、ちゃぶ台はだれそれにと近所の人の名前と感謝の言葉が書いてありました。この潔さと思いやり。私は学ぶことばかりです」。

わけあえばあまる

 「滅びゆく島」。三十数年前、テレビがこんなタイトルで沖家室を紹介したことがある。日本が高度成長のレールをひた走っていたころ。裸電球の下、石うすで粉をひく独り暮らしの老人の映像は、過疎の島に経済原理や競争社会の「落ちこぼれ」を見ている。

先祖の霊を小船で送り出す流れ灌頂。盆で里帰りした家族も静かに手を合わせる=山口県・沖家室島
先祖の霊を小船で送り出す流れ灌頂。盆で里帰りした家族も静かに手を合わせる=山口県・沖家室島

 ところが昭和五十年代、町が高齢化日本一になると、にわかに「長寿の島」と脚光を浴びた。最近は「大往生の島」とも呼ばれ、信仰と共同体のきずなに支えられた島として研究者らが頻繁に訪れる。「島は別に変わっとらんのじゃが、都会の人間は言うことがコロコロ変わる」と前老人会長大谷武雄さん(87)は苦笑する。

 沖家室の特質を尋ねられると、新山さんは詩人相田みつをさんの言葉をよく引用する。<うばいあえばたりぬ わけあえばあまる>。「足るを知り、互いに助け合う。日本人が持っていた美徳が、近代化に乗り遅れたこの島には残っている。そこが見直されているんじゃないでしょうか」。

 陸(おか)の見る目が変わっても、沖家室が日本の過疎・高齢化の縮図であり、そこに厳しい現実があることにむろん変わりはない。

 「大往生の島」も、その内実は心細い。隣の屋代島にある特養施設や病院もベッドは不足がち。大病、長患いは島からの別離に直結する。もしもの時、大谷さんは柳井市の老人病院に厄介になろうと決めている。下調べに二度足を運んだ。「お金の準備もできとる。人様にも子供たちにも迷惑はかけられん」。

ミカンのなるころ

 島を離れる日、もう一度柳原フサコさん(94)を訪ねた。タンスの奥に死装束の経帷子(かたびら)や四国遍路に使ったつえをしのばせている。「いつ、お迎えが来てもええ。けど、元気なうちは働くで」。

 フサコさんはおととし、山にミカンの苗木を二本植えた。かつて島の全山を埋め、貴重な収入源だったミカンは輸入自由化の大波にさらわれ今は跡形もない。「私が死んだら、だれかが育ててくれよう。またミカンの島になってくれりゃあな」。問わず語りの小さなつぶやきが、宗教改革者ルターの言葉と重なって聞こえた。

<たとえ世界があす終わりでも、きょう私はリンゴの木を植える>。

自足の暮らしに誇りを持ち、死も穏やかに受容する強さ。沖家室にはやはり、過疎・高齢の暗い隈(くま)取りは似合わない。

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新瀬戸内海論「島びと20世紀」は終わります。ご愛読ありがとうございました。