繁栄の代償

第3部 豊島と直島9

はげ山修復徐々に効果

 高松からフェリーで宇野に向かっていると、直島に差し掛かったあたりでそれまでの緑豊かな多島美は一変する。風化した花こう岩の地肌をあらわにする三菱マテリアルの工場や対岸の荒神島。「製錬所の煙ではげ上がってしもてな」と、郷土史家の三宅勝太郎さん(93)。「今では山にもだいぶん緑が戻ったが、昔は島中がはげ山。豊かさを求めた夢の跡ですわ」。

山が枯れた

 製錬所による煙害が表面化したのは、操業間もない大正九年。直島町史には同年十一月、製錬所近くの農作物が煙の被害を受け、補償要求が出されたことが記されている。煙害の原因は鉱石を溶錬する際に発生する亜硫酸ガス。「煙を被ると野菜は葉にはんてんができ、米麦には根腐れ病が発生。山の木々はみるみる白くなり、枯れていった」。

長年の煙害ではげ上がった荒神島。三菱マテリアルも植栽には努めているが、やせた土壌では生育は難しい
長年の煙害ではげ上がった荒神島。三菱マテリアルも植栽には努めているが、やせた土壌では生育は難しい

 三宅さんは煙害調査員として変ぼうする島の様子を訴えたが、「それほどの影響はない」とする三菱側と補償交渉は擦れ違い。三菱側も独自の試験田で調査を行ってはいたが「そこは煙があまりこない場所」(三宅さん)。当然、補償額は被害者の意に満たなかったが、もともと煙害を承知で受け入れ、豊かさを手にした直島にとって激しく抵抗できるわけもなかった。

 「ホウレン草をひと晩のうちに枯らした」といわれた煙害も、脱硫装置がついた昭和初めごろから下火になったといわれている。戦後は施設改良が進み、排煙は風向きによって多少におう程度にまで改善された。農作物の被害も減少し昭和三十六年を最後に補償は打ち切られたが、一度壊れた山の土壌が回復するにはさらに膨大な時間を要した。

行政の限界

 直島の煙害に県が目を向けたのは、大気汚染が全国的な問題となった昭和四十年代の後半。対岸の岡山県や玉野市が直島から流れる排煙にクレームを付けたのがきっかけだった。

 昭和四十八年、県が実施した調査では直島の硫黄酸化物排出量は玉野の日比製錬所の十倍。あわてた県は翌年、岡山と公害対策連絡協議会を設置。五十年には直島町と製錬所の三者で公害防止協定を結んでいる。

 煙害発生から実に半世紀以上。県も直島の現状を知らなかったわけではないが、「製錬所の監督は通産省鉱山保安監督部の管轄。この協定を結ぶまで県には工場に立ち入る権限さえなかった」。当時、公害担当者として調査に当たった横井聡県環境局長は、行政の限界を強調する。

 直島が国立公園に指定されたのは昭和九年。煙害はまだ島にとって大きな問題だった。が、その景観を守るはずの自然公園法が煙害に歯止めをかけた跡はない。

 「法律は土地所有者の権利行使を規制するもので、一部特別地域を除き、相当な理由があれば自然改変行為も認めざるを得ない」と県自然保護室。「ミミズによる土壌改良」という実態のない申請が許可された豊島の産廃処分場も、実は国立公園の区域内。国立公園内に産廃処分場設置が禁止されたのは平成六年の環境庁長官通達からだった。

 「法制度というものは常に技術の後についていくもの。指定区域外から流れて来る煙害の規制は今もなく、他法にゆだねるしかない」(県自然保護室)

無理は言えん

 製錬所がはげ山の植林に本格的に取り組みだしたのは昭和二十五年。平成三年発行の「四国地方鉱山保安四十年のあゆみ」には、その経緯が記されている。

 <植栽はヤシャブシやクロマツなど二百六十万本。要した資金は三菱マテリアルが三億六千五百万円、県・国の補助が一億四千五百万円>

 今もマテリアルは毎年数千万円、県も二、三百万円の補助金を出して植林を進めているが、風化した土壌は樹木の活着が悪く「天候によっては七、八割が枯れることもある」(三菱マテリアル直島製錬所総務課)という。

 「ここは直島の玄関。早く緑に戻してほしいとは思う」。宇野行きのフェリーを待っていた住民の一人は、目の前の荒神島を見ながらつぶやいた。「でも、マテリアルも頑張ってやっている。不景気でリストラをやろうかという時期に、あんまり無理も言えん」。