遠い香川(下)

第3部 豊島と直島8

「一部離島」の声届かず

 「自分たちの県からこれほど離れようとした島も珍しいでしょうな」。豊島村元助役の中岡貞一さん(87)は「香川県に対する豊島の不信感は根深い」と言う。

 終戦後間もない二十四年、最初の「離県運動」の旗を振ったのが当時村職員の中岡さん。台風で島内の道路が崩れ、子供が学校に通えない。復旧工事を求め、船で"県庁参り"を重ねたが、担当職員はのれんに腕押し。うっ積していた不満に火がついた。「道路に限らん。医療も教育も後回し。島をまま子扱いするのか」。

 中岡さんは賛同者を集めて岡山県玉野市に合併を打診。色よい返事をもらったが、村の古老らに「早まるな」と諭され、離脱のほこを収めた。

住民投票

 いったん沈静した離県の思いは「昭和の大合併」で再び浮上する。

 合併先の選択肢は土庄地区と玉野市。島は二つに割れた。たばこ栽培農家は専売所のある土庄を望んだ。一般住民は総じて玉野市寄り。生活圏が岡山と重なり、玉野の三井造船に通勤する島民も少なくない。情勢は「玉野市有利」(中岡さん)。だが意見調整がつかず、決着は住民投票に持ち込まれた。

 二十九年十二月、投票の結果は土庄地区九百六十二、玉野市五百八十二。予想を覆し、土庄に軍配が上がった。「たばこ耕作組合の激しい巻き返しで、最後の一日か二日でひっくり返った」。村書記として投票事務を担当した紺田義夫さん(73)の証言だ。

 村議会会議録には「村民の総意」とあるが、実際は四割近い住民の割り切れない思いを抱え込んだまま翌三十年四月に合併。豊島村は土庄町豊島になった。

 香川にとどまったこの選択を二十数年後、豊島住民は悔やむことになる。

 産廃処分場の建設反対に立ち上がった島民に対し、県は頑として許可方針を変えようとしない。五十二年二月、業を煮やした島民代表五人が玉野市役所に駆け込み、「分町合併」を要望。好感触を得たが、住民は県の善処を信じて翻意した。「玉野市豊島」は再び消えた。

一集落

 「香川は全国で二十六番目に離島対策に熱心」と日本島嶼(しょ)学会事務局長の長島俊介奈良女子大教授。離島振興法の地域指定を受けた島を持つ都道府県は二十六。「つまり、離島に一番冷たい。関係者の間では常識ですよ」。

産廃処分場の建設反対を求め県庁に向かう豊島住民。離県の思いが胸にくすぶっていた=昭和52年7月
産廃処分場の建設反対を求め県庁に向かう豊島住民。離県の思いが胸にくすぶっていた=昭和52年7月

 「離島に冷淡」な香川の構造的要因として長島教授が指摘するのは「一部離島」の多さだ。

 一部離島は、島自体が一地方公共団体でない形態、いわゆる属島を指す。香川の有人島二十五のうち独立した行政体は直島と小豆島本島だけ。残る二十三島は昭和の大合併などで次々に本土側に吸収されている。

 「属島になると、自治体の一集落、少数派にすぎなくなる。島の民意が海を越えて町を動かし、さらに県行政へと反映されるのは難しい」と財団法人日本離島センター総務部長の大矢内生気さん(51)。県事業の豊島いきいきアイランド計画(平成五、六年度)の策定作業にかかわった際、「町サイドの豊島振興ビジョンが全くない」のにあきれ返った。

 「合併から四十年ですよ、四十年。いかに町が豊島を小集落としか見てこなかったかの証左」。豊島の場合は、小豆島という離島のそのまた離島。島民の声が吸い上げられにくい条件が重なっている。

純朴と一徹

 戦後三度、豊島は離県に動き、そのたびに香川に残る道を選んだ。

 中岡さんは、「純朴」と「一徹」が同居する島びとの特質をそこに見ている。

 「最初の離県運動で、お年寄りに泣きつかれましてな。お大師さんの讃岐を離れとうないと。振り切ることはとてもできんかった」

 産廃問題でも、理不尽な扱いに抵抗し続けた豊島は一方で、知事を「親」と信じ続けた。

 「島の思いを、県や町はどれだけ受け止めてくれたのか」。深いしわを刻む中岡さんの顔が朱に染まった。