遠い香川(上)

第3部 豊島と直島7

物心両面、対岸に親近感

 朝七時五十分、直島宮浦港を出る宇野行きフェリーは通勤、通学、通院の住民でほぼ満席になる。

 宇野へは二十分、高松までだと一時間。船の便数も宇野行きがずっと多い。「高松に渡れば一日仕事」と玉野市内の病院に通う主婦(56)。「直島は水も電気も学校も岡山頼み。いっそ玉野市になった方が便利じゃし、すっきりする」。

越県通学

フェリーで「越県通学」する直島の高校生。玉野市との結び付きは強い=宇野港
フェリーで「越県通学」する直島の高校生。玉野市との結び付きは強い=宇野港

 行政区分は香川でも、生活・経済面では完全な岡山圏。島民の目は対岸を向いている。

 「昔はえろう反目し合ったんじゃがね」と郷土史家の三宅勝太郎さん(92)。備讃の海には激しい漁場紛争の歴史が横たわっている。直島諸島に属する井島の縄張り争いはその代表格。高松、岡山両藩が争奪を繰り返し、幕府の裁定で分割された。現在も島の南半分が直島町、北側は玉野市。いさかいの記憶は住民の遺伝子に刷り込まれ、海をはさんで「備前ギツネ」「浄願寺ダヌキ」と陰口をたたき合ったという。

 「それも戦前まで。年寄りや漁民には岡山嫌いの気分がまだ残っとるが、若い人はむとんちゃく。だいいち、史実を知らんじゃろ」(三宅さん)。

 島の高校生の約七割が玉野市内に通っている。大半が県立の「玉高」と「玉商」。戦時中から続く慣行だが昭和四十八年、岡山県教委が「越県通学」を正式に認め、島民を喜ばせた。

 週末、玉野のスーパーや家電量販店は直島からの買い出し客でにぎわう。「直島のおかげでやっていける店もあるようです」(玉野商工会議所)。

 持ちつ持たれつの友好関係に、封建時代の紛争話が入り込む余地はない。

友情の水

 「水をくれた岡山には足を向けて寝られんが、香川県にしてもらったことは何一つない」。九期三十六年間町長を務めた故三宅親連の口癖だ。

 慢性的な水不足に苦しむ直島に玉野市が手を差し伸べたのは昭和四十四年。「友情の水」とはやされた海底導水の完成は直島を渇水から解き放ち、島の経済を支える製錬所への安定給水につながった。

 「親連さんはずいぶん恩義を感じてました」と三宅町長の私的ブレーンだった新開福市さん(80)。三宅は後に「香川県に水を何とかしてくれと頼んだら、海水をこして飲めと言われた」と痛憤している。

 海底導水の「友情」はむろん、額面通りには受け取れない。玉野市にとって「地先まで迫る直島の海は港湾整備や漁業振興の厄介なハードル」(新開さん)。直島を取り込めば自動的に広い海が手に入る、そんな思惑もあったのだろう。当時、盛んに合併話を直島に持ち掛けている。

 「今はどことも合併は考えていない。香川も岡山もともに連携を大切にしたい」。浜田町長は慎重に言葉を選び、"等距離外交"を強調するが、現実の距離と離島のハンディは市町レベルの広域行政にもつきまとう。高松地区広域市町村圏に属してはいるものの、し尿やごみは町単独で処理。「特養ホームの利用が可能なぐらい。広域連携の恩恵はあまりない」(町幹部)。

 片や、玉野側とは防災や救急の分野でも密接なつながりを持つ。「合併するなら玉野」。目と鼻の先の街に住民がなびくのも無理はない。

玉野架橋

 「この際、玉野に橋を架けてもらいたい」。豊島産廃の直島処理案を受けて開かれた三月の住民説明会。架橋を求める男性の声に会場から拍手が沸いた。

 架橋構想は直島が瀬戸大橋ルートから外れた昭和四十年代に浮上。町は六十二年に調査を実施したが、建設費の試算は架橋部分だけで約六百五十億円。負担が重過ぎると立ち消えになった。その構想が産廃処理で息を吹き返している。

 「香川県は今まで何もしてくれんかったし、縁遠い存在。それが急に近寄ってきて、しかも産廃や」。割り切れん思いがある、と架橋推進派の住民は言う。「島の活性化を言うなら橋が一番。今のご時世、難しいのは承知しとるが、これくらい言わしてもろてもええやろ」。