逆転

第3部 豊島と直島6

生活基盤やむなく崩す

 昭和三十八年、豊島に一つの「事件」が起きた。

 岡山との間にある「団子瀬」での海砂採取だ。大阪市が南港埋め立てのため五年間で約千六百万立方メートルの大量採取を計画し、県に許可を申請した。

 「瀬は魚にとって重要な場所。漁業に大きな影響が出る」。豊島の漁業者は大騒ぎとなったが、結局、大阪市が地元漁協に二億二千万円の補償金を支払うことで決着した。現在まで瀬戸内海の漁業者に大きな影響を与えている海砂補償の始まりだった。

自治会にも配分

 多額の補償は漁業者の生活を大きく変えた。

 四、五百万円もの配分を受ける漁業者もおり、島では新築ラッシュが起き、一夜にしてカラーテレビが普及したといわれた。

 「そりゃ、すごい額。家を建ててもまだ余るぐらいあった」。漁業者でない島民は、やっかみ交じりに話す。「岡山などからも銀行員がよう来とったわ」。

 だが、「これから生じる複雑な問題が起きた」と土庄町誌にも記されているように、補償額の大きさが島内に波紋を広げる。

 「複雑な問題とは、補償金の分配のことなんです」。豊島村の元助役だった中岡貞一さん(87)は、当時を振り返って言う。漁業者以外からも補償を求める声が上がったため、二億二千万円のうち数千万円が自治会に入ることになったが、その分配が問題となった。

 「自治会に残してみんなのために役立てよう」。中岡さんらはこう主張したが、個人への配分を求める声が強く、半分を自治会に、残りを各戸に配分することになったという。

 そして、これが前例となり、漁協とは別に自治会も「採取協力費」を受け取ることが慣例となっていく。

漁業者は不満も

 代償は大きかった。

 「団子瀬で海砂採取が始まったころから魚が捕れなくなった。豊島周辺はイカの宝庫だったのに」と中岡さん。漁具の発達による乱獲もあって、漁獲は次第に落ち込んでいったという。

港に並ぶ漁船も出漁の機会は減っている。他の島と同じように漁船漁業は見る影もない=豊島家浦
港に並ぶ漁船も出漁の機会は減っている。他の島と同じように漁船漁業は見る影もない=豊島家浦

 「昔に比べると魚がいなくなった。毎年、減ってきているような気がする」。こう話すのは、豊島の三漁協の中で最も組合員が多い唐櫃漁協の高橋譲組合長。「ママカリもイカナゴも海砂採取の影響は大きんじゃないか」。

 現在、三漁協の組合員は二百人を超えているが、数軒のノリ養殖業者を除いて、漁業だけで生計を立てられる組合員はほとんどいない。漁船漁業は見る影もないのが現状だ。

 三漁協に支払われていた補償金は年間六千万円余。漁業が苦しくなればなるほど、海砂補償への依存度は増していった。

 だが、その補償金もこの四月からストップした。環境保全の観点から、自治会が海砂採取に同意しなかったためだ。

 「本当は海砂採取を続けてほしいという組合員は少なくない」と、最も補償額が多かった家浦漁協の関係者は訴える。「組合も海砂補償があったからこそやってこれた。一般の収入だけではとても無理」。

 漁業者の不満の声は、補償金の存在の大きさの裏返しでもある。

「豊かさ」失う

 もちろん補償に依存する体質は豊島だけの問題ではない。海砂補償は豊島の周辺以外では現在も続いており、「補償金頼みでない島の漁協はない」(高橋組合長)との声もある。

 海砂採取は、漁業者が事実上の許可権者である点で、採石と同じように環境の切り売りの側面がある。石を売り、砂浜を売り、海底の砂も売る。自らの体を削らなければ生きていけない島の現実がそこにある。

 かつて製錬所の立地を拒否できたような「豊かさ」は、豊島にはもうない。農・漁業は疲弊し、島の経済を支えた豊島石も衰微した。他の島と同じように人口は減り、輝きを失った。

 いつのまにか八十四年前とは経済基盤が直島と逆転していた。