石とともに

第3部 豊島と直島5

豊かな島を支えた特産

 「海岸にはずらっと石納屋が並んでおってな。硯(すずり)の浜は職人の町と言うてええぐらいやった」

 豊島で石材会社を経営する美山幸春さん(62)は、かつての島を象徴する風景を懐かしそうに思い起こす。

 周辺は好漁場に恵まれ、稲作も盛んで、文字通り「豊かな島」だった豊島。中でも隣の直島と差を分けたのが、特産の豊島石の存在だった。

石工1000人

 庵治石や青木石など石材ブランドの多くは御影石(花こう岩)だが、豊島石は角礫凝灰(かくれきぎょうかい)岩。御影石に比べて石質が柔らかく、火に強い。そのため昔から台所のくど(かまど)や灯ろうなどに加工されてきた。

 その歴史は古く、鎌倉時代までさかのぼる。慶長年間(一五九六―一六一四)にはすでに豊島石を扱う石材問屋が大坂に七軒もあった、と豊島村誌(大正三年刊)は伝えている。

 珍しい坑内掘りの丁場は、寛政十一(一七九九)年の「日本山海名所図絵」でも紹介され、「女木島の洞くつも豊島の人が採石した跡」と美山さん。京都桂離宮の灯ろうの多くは豊島石といわれ、製品は西日本各地に広まっていたという。

 職人もその技術を買われて全国で活躍。明治時代、東京で土木会社を興し、国会議事堂や日本橋の工事に携わった中野喜三郎ら多くの技術者を輩出している。

 「豊島千軒、石工千人」。こんな言葉が残っているほど島の石材職人は多かった。村の年間予算が一万一千円余だった明治末、石灯ろうの生産額は三万円を超え、米と並ぶ島の主要産物だった。

外国産が打撃

 「黒っぽい豊島石は黒石、御影石は白石と言うてな。両方の職人がおった。同級生は八割方が石工になったもんよ」。こう語るのは、豊島村の元助役だった中岡貞一さん(87)。昭和初期の不況時も石工なら仕事に困ることはなかった。

 しかし、島の経済を支えて来た豊島石も時代とともに下降線をたどる。

 戦後の住宅事情の変化やコンクリートの普及。いったんは高度成長期の建設ブームで需要が大きく伸び、「生産が追いつかないほど」(美山さん)だったが、安価な韓国・中国産の大量流入によって深刻な打撃を受けた。

 「価格では太刀打ちできん。こっちの人件費で外国産なら製品が買えるんやから」と美山さんは嘆息する。

 現在では、島内の石材業者は数軒。他産地から移入した御影石の加工が中心で、豊島石製品の扱いは最も多い美山さんの会社でも三割程度。最盛期には七十人を抱えた職人も十数人に減った。

 落ち着いた風合いやコケの付きやすさなどから、今も豊島石の灯ろうの人気は根強い。時には京都の寺社などから文化財の修復依頼も来るという。

 だが、それも昔に比べればごくわずか。「かつて島の住民は五千人もいたが、豊島石が悪くなるにつれ、人口も減っていった」と中岡さん。石の盛衰に歩調を合わせるように、島も沈滞していった。

切り売り

 「機械化が進んで加工は楽になったけど、仕上げは今も手作業。一人前になるのに五、六年はかかるし、若い人はやりたがらんよ」。四十年にわたって豊島石の灯ろうを作り続けてきた虻江算信さん(56)は後継者不足をこぼす。

豊島石の灯ろうを製作する虻江さん。需要はめっきり減り、「石工千人」といわれたかつての活気はみられない=豊島
豊島石の灯ろうを製作する虻江さん。需要はめっきり減り、「石工千人」といわれたかつての活気はみられない=豊島

 豊島石灯ろうは県の伝統工芸品に指定されているが、需要は減り、安定した収入を得るのは難しい。専業の職人はおらず、虻江さんも製作は土木工事の合間に進めているのが実情だ。

 豊島に限らず、瀬戸内海には小豆島や与島、広島、北木島など採石で生きて来た島が少なくない。二次産業がほとんどなく、「資源」を切り売りせざるを得なかった。

 石材需要の低下とともに、次第に忘れられた豊島に再び注目を集めさせたのは、都市から運ばれた大量の産業廃棄物。その投棄地も、石材と同じく資源を切り売りした砂の採取跡だった。