運命共同体

第3部 豊島と直島3

製錬所引き留めに一丸

 昭和四十二年、三菱金属鉱業は生産増強を旗印に新製錬所の整備構想を打ち出した。候補地は小名浜(福島県)と直島の二カ所。社の試算では、敷地が手狭で港も貧弱な直島は投資額が小名浜の二倍、工業用水も割高だった。

 だれが見ても直島に勝ち目はない。島は上を下への大騒ぎになった。

 「製錬所がなくなれば、島もなくなる」。三宅親連町長と全町議、さらには金子正則知事も三菱本社に陳情を重ねたが、色良い答えは返ってこない。

 <開町以来の危機/誘致できねば町は衰亡>。当時の町広報の見出しには悲そう感が漂っている。

救世主

ユニークな設計で知られる直島小の校舎。製錬所がもたらす税収のたまものでもある
ユニークな設計で知られる直島小の校舎。製錬所がもたらす税収のたまものでもある

 踏み絵を前に、当時直島製錬所労組委員長の吉田康人さん(78)は頭を抱えていた。踏み絵とは、社が提示してきた<現有人員での新施設操業><補助管理部門の社外化>など四条件。組合にとって労働強化と組織の弱体化に直結する屈辱的な内容だった。が、拒否すれば新工場の直島設置は完全に消える。

 「受け入れるしかない」「いや、自殺行為だ」。激しい議論の末に執行部は条件受諾を決断。総決起大会もこれを支持した。

 吉田さんは単身、東京大手町の本社に駆け込み、居並ぶ役員に訴えた。

 「組合員と家族、そして島民すべての願いを一身に背負い、ここに立っております。直島の将来を閉ざさないでください」。涙で何度も言葉がとぎれた。

 直訴から二週間後、事態は急転回する。

 「直島製錬所の近代化を優先的に考慮する」。製錬所創立五十周年式典に届いた相京光雄社長のメッセージは事実上の直島決定を伝える朗報だった。会場はどよめいた。「執行委員長の声涙ともに下る披歴に深く感動した」と相京社長は言い添えてあった。吉田さんはまた泣いた。

 「直島の救世主」と呼ばれた吉田さんは後に、三宅町長に請われ助役と教育長を務めている。

止まらぬ過疎化

 新製錬工場が稼働した四十四年、直島では海底導水管の通水、文教地区の造成完了と二つの大事業が節目を刻んだ。

 玉野市からの導水は製錬所に工業用水を安定供給するのが目的の一つ。一方、文教地区の整備は保育所から中学校まで一貫教育を目指す三宅町長の理想の具現化だが、「子弟教育に熱心な製錬所従業員に配慮した政策」(吉田さん)でもあった。三宅自身は後に、製錬所の恩恵で得た税収を「最も公平に還元する方法だったから」と話している。

 全島一丸でつなぎ留め、バックアップした製錬所はしかし、町の浮揚にはつながらなかった。合理化に伴う転出が相次ぎ、人口は毎年百人前後減り続けている。「県内ワースト一位の減少率」(県市町振興課)だ。三十年代半ばまで一・〇を超えていた町の財政力指数も〇・四五まで低下した。

 とはいえ、製錬所が島の命綱であることに変わりはない。住民のおよそ半数が製錬所と関連十一社の従業員と家族。製錬所関係からの税収は全体の六割を占めている。

 個人所得は高松市、牟礼町に次いで県内三位。三菱の給与水準の高さを映している。従業員一人当たりの製造品出荷額も断トツの二億円で、番の州コンビナートを持つ坂出市(六千万円余)の三倍強。本土の七割といわれる離島の生産性を考えると、直島はやはり「特別な島」だ。

声を潜めて

 「産廃の直島処理? あんた、ごみが来て喜ぶ人間がいると思うか」。本村の自営業者は質問に気色ばんだが、すぐに声を落とした。「名前は伏せてくれ。ここに居れんようになる」。

 製錬所に依存して暮らす島で、正面切って産廃反対とは言いにくい。島を歩くと、そんな声が耳に入ってくる。

 「製錬所と島はまさに運命共同体」と伊丹正博高松大教授(日本経済史)。「産廃の受け入れで三菱が助かり、製錬所が存続するなら、仕方がない。それが住民の思いの最大公約数でしょう」。