離島にあらず

第3部 豊島と直島2

大三菱から豊かな恩恵

 「嫁日照り」と「医者不足」。離島のハンディは数多いが、最も切実な悩みと住民が口をそろえるのが、この二つだ。

 「直島は特別でね。製錬所のおかげで長い間、嫁さんと医者に困らなかった」。浜田孝夫町長の言葉には、三菱の恩恵に浴してきた島びとの思いがにじむ。

優等生

製錬所の立地は潤沢な税収や人口増をもたらし、直島の暮らしを一変させた(昭和4年)=岡崎貢さん提供
製錬所の立地は潤沢な税収や人口増をもたらし、直島の暮らしを一変させた(昭和4年)=岡崎貢さん提供

 大正八年一月、国内初の反射炉による銅製錬が直島で始まった。東洋一とうたわれた製錬所の進出は、たちどころに村の懐を潤し、施設の増強につれて人口も急増。島外からの移住・転勤者が住民の半数を超えた。

 「企業城下町」の色合いは戦後さらに強まる。「昭和二十年代後半からの十年間、県内で地方交付税を受けなかったのは直島だけ」(県市町振興課)。税収の八五%を固定資産税など製錬所関連が占めた。

 "財政優等生"に変身した直島は、国が大号令をかけた「昭和の大合併」にも泰然自若。財政基盤の弱い県内の離島が陸側との合併で次々に属島化するのをしり目に二十九年四月、単独で町制に移行した。

 もう一つ、直島の特異性を示すエピソードがある。

 三十二年、離島振興法の地域指定が瀬戸内海を対象に始まった。指定を受けると道路や港湾整備の補助金が加算される。直島町も早速手を上げたが、「県内一裕福な自治体」がここでは裏目に。事前協議の段階で国から「優遇措置の必要なし」と申請自体に待ったがかかった。

 「なんでもある島。ないのは橋だけでしたね」。当時、離島審議会委員として現地を視察した防衛大名誉教授山階芳正さん(73)の目に、直島は「離島らしからぬ豊かな島」と映った。「部分指定も考えたが全島が三菱の影響下。線引きは無理だった」。

 振興法第一条の「後進性の除去」「産業振興」に該当せず―そう判断した審議会は「直島は特別な島」と議事録に記載した。

 直島町に属する周辺六島は三十九年に追加指定されたが、直島本島だけはその後も指定から外れている。

大三菱

 「なんでもある」直島。中でも「立派な総合病院と映画館にはびっくりした」と山階さんは言う。

 いずれも三菱の施設で、製錬所病院は離島には珍しく内科、外科、産婦人科、小児科、耳鼻科と各科がそろっていた。「優秀な医師ばかり。本土の病院より信頼されていた」と前連合自治会長の高崎英一さん(72)。三十年代には月に七千人が利用している。

 映画館は正確には製錬所内の文化会館。専門技師を抱え、毎月封切り作品をかけた。娯楽の少なかった時代、住民はこぞって足を運ぶ。人気役者や歌手の公演もあった。「文化的には高松や玉野より恵まれとった」(高崎さん)。

 「天下の三菱は気前も良うて」とは自営業山本貞蔵さん(82)。庁舎や学校の建設から道路改修、地区行事まで事あるごとに製錬所は祝儀を包んだ。従業員用の「太平丸」は一般住民にも開放され、通学の貴重な足になった。

 高卒初任給が県内一といわれた製錬所には地元から毎年三十人前後が就職。安定収入は結婚、定住に直結する。三菱の恩恵は島の暮らしの隅々を浸していた。

 元村職員三宅寛の回想録(昭和三十二年)にこのころ、船中で耳にした豊島の老人の愚痴が載っている。<製錬所を締め出した豊島には働く場所がない。条件の悪い島外に出なければならん。直島の昔の人は先見の明があった>。

 直島の隆盛を横目に、職を求めて古里を離れる豊島住民の複雑な思いがうかがえる。

かげり

 右肩上がりで伸び続けた直島の人口は昭和三十三年、七千八百四十二人に。製錬所立地から四十年間で三・五倍に増えた。

 しかし、この年を境に直島の繁栄にもかげりが見え始める。機械化による人員整理が相次ぎ、不安がささやかれた。「製錬所は大丈夫か」。

 不安が形になるのは四十二年。製錬所が開設五十周年を迎えたその夏、島を揺るがす"大事件"が起きた。