くしき因縁

第3部 豊島と直島1

84年前の選択繰り返す

産廃を受け入れる直島の三菱マテリアル直島製錬所。正面奥が豊島
産廃を受け入れる直島の三菱マテリアル直島製錬所。正面奥が豊島

 土庄町豊島。五十数万トンの産業廃棄物が埋まる水ケ浦から西へ約五キロ、指呼の間に直島本島の島影が横たわる。

 「豊島がいらん言うたものを直島が受け入れる。八十四年前もそう。歴史は繰り返す、じゃな」

 撤去が決まった産廃の上を歩きながら、住民会議役員の山本彰治さん(66)は二つの島の因縁に思いをめぐらせた。

水が枯れる

 同じ直島諸島に属する豊島と直島に宿縁の種がまかれたのは大正五(一九一六)年。銅製錬所の適地を探していた三菱合資会社はまず豊島村に白羽の矢を立てる。豊島は湧(わ)き水に恵まれ、大量の水を使う製錬事業にうってつけの島だった。三菱の思惑はしかし、大地主の片山家から門前払いされる。

 「ややこしいものが来たら困るって、先々代の当主が断ったと聞いています」と片山松子さん(84)。元町職員の植原美信さん(74)は「農家がみな反対したらしい」と話す。「排煙で山がはげたら、湧き水が枯れる。稲が作れんのではかなわんと」。文書が残っていないため意思決定の経緯は定かでないが、反対の主因が煙害にあったのは間違いない。

 豊島をあきらめた三菱は候補地を直島に転換、島の意向を打診した。村長松島九三郎にとって、それは願ってもない申し出だった。

百年の大計

 直島は疲弊していた。多額の支出を伴う耕地整理事業、打ち続く凶作と伝染病の発生。村財政は火の車だった。企業誘致しか島を救うすべはない。そう思い定めた松島は三井造船に進出を働きかけたが、交渉は不調に終わる。三菱側の接触はその直後。まさに「渡りに船」の話だった。

地図

 松島は緊急招集した議会に製錬所誘致を提案。「農、漁の発展もはやその余地なし」「財政ますます困難に陥るほかなく」と窮状を訴え、候補地に選ばれたことを「本村百年の幸福」と言い切っている。三十五歳の青年村長は直島の生き残りと百年の大計を製錬所にかけていた。

 村議会は「村是」として誘致を決議。だが、島がすんなり一本化したわけではない。<煙害を心配する地主たちの抵抗で、評議は七十五回に及んだ>。元村職員三宅寛の回想録は、当時の煙害アレルギーの強さを伝えている。

 明治中期から大正にかけ急成長した産銅事業は、各地で亜硫酸ガスによる深刻な環境被害を招いていた。補償問題に頭を痛めた業界は瀬戸内海の島しょ部に目を向け始める。明治二十九年、住友は新居浜市沖の四阪島を買い取り、別子の製錬所を移転。離島進出の先べんをつけていた。

 三菱の直島選定の理由をみても「煙害問題を免るるの位地」(三菱合資社誌)が第一条件。当時の製錬技術では煙害の発生は避けられない。「免るる」は島なら排煙の影響が少なくて済むという意味合いだろう。鉱石の海上運搬にも離島は好都合な存在だった。

 誘致決議から二カ月後、地主会を説得した松島は三菱と製錬所設置の契約書を交わした。

経済格差

 拒否と誘致。共に煙害を危ぶみながら豊島と直島が正反対の結論を出した背景には両島の経済基盤の格差が見てとれる。

 大正初期の人口は豊島約二千八百人、直島約二千人。豊島は特産「豊島石」の加工と稲作が盛んで、豊島村誌(大正三年刊)には村財政のゆとりを示す数字が並んでいる。

 一方、直島村の財政は前述の通り、破たん寸前。外部資本の導入に活路を求めざるをえなかった。半農半漁の島から一転、「鉱工業の島」として近代史に登場した直島は製錬所の火とともに二十世紀を歩むことになる。

 美しい島にと産廃の撤去を求めた豊島。町の浮沈をかけ産廃を受け入れる直島。製錬所と産廃の違いこそあれ、隣り合う島は八十四年前と同じ道を選んだ。対照的な選択の裏側にはしかし、共に社会のひずみを背負って生きる離島の姿が横たわっている。二つの島の軌跡をたどる。