乗り合いバス

第2部 中村由信の世界8

客も運転手も顔なじみ

大声出して追っかければ止まってくれた島のバス。運転手はだれが、どこから乗るかも心得ていた(昭和34年、小豆島)
大声出して追っかければ止まってくれた島のバス。運転手はだれが、どこから乗るかも心得ていた(昭和34年、小豆島)

 「そうそう、昔のバスはふろ屋と一緒。よもやま話の場所だったよ」。元小豆島バス専務の浜岡昇さん(68)は懐かしそうに、一枚の写真を眺めた。写っているのは、「銀バス」と呼ばれたボンネットバス。車内では日増しに大きくなる赤ん坊を囲んで、乗客も運転手もまるで身内のような笑顔を浮かべている。

 「当時のシートの並びは客が向き合って座るコの字形。人が集まれば自然と会話がはずんだ」。

 中村由信がレンズを向けたのは昭和三十四年の小豆島。映画「二十四の瞳」のヒットで、すっかり観光地となっていたが、幹線道路を一歩外れるとそこは田舎のでこぼこ道。乗り合いバスがのろのろ走るのどかな風景だった。

 まだマイカーもまばらな時代。鉄道のない島では乗り合いバスはまさに生活の足。通勤通学や病院通い、街への買い物。自転車で行けないところはみんなバスを使っていた。乗客同士はもちろん、運転手もみんな顔なじみだ。

30年余りで利用者が10分の1に減った乗り合いバス。今は通学や病院通いのお年寄りの足になっている=土庄町
30年余りで利用者が10分の1に減った乗り合いバス。今は通学や病院通いのお年寄りの足になっている=土庄町

 「当時の運転手はだれが、どこから乗るか心得ていた」と浜岡さん。バス停に間に合わなくても、道端で手を挙げればバスは止まってくれた。

 今でこそ法律で認められるようになったが、昔は途中乗降は禁止。「でも、乗りたいという人を置き去りにはできんでしょ。中には年寄りをおぶってバスに乗せる運転手もいた。思いやりですよ」。

 小豆島バス観光事業部長の福本一男さん(55)は、そんな運転手にあこがれ三十五年に入社。しばらく車掌を務めた。「弁当などの忘れ物を届けるのもバスの仕事だった」と福本さん。漁で取れた魚、家で作った野菜など地域の人々から受けた優しさを今も忘れない。

 昭和三十五年から四十年ごろまでが乗り合いバスの全盛期。「朝夕の通勤通学時間帯は、積み残しが出るほどで、ラッシュ時にはドアを開け、車掌は入り口にぶら下がるようにして乗っていた」という。

 しかし、マイカーの普及、人口の流出により島の路線は徐々に減少。四十二年に五百七十万人を数えた乗客は、三十年余りで十分の一に減った。「一日当たり約四百五十人の乗客が消えた計算になる」と福本さん。「利用者がいる以上、バスは運ぶ使命があるが、いつまでも赤字で走るわけにはいかない」。思いは複雑だ。

昔のバスは客も運転手も顔なじみ。車内は家族的な雰囲気に包まれていた(昭和34年、小豆島)
昔のバスは客も運転手も顔なじみ。車内は家族的な雰囲気に包まれていた(昭和34年、小豆島)

 「客が少なく、運転手が気の毒な時もあるが、高齢者にとってバスは貴重な足。なくなると困る」というのは池田町の八木武さん(78)。

 同町では昨年十月、土庄町との間を結ぶ大鐸(おおぬで)線が廃止となり、両町の委託運行に切り替わったが、「今は行政が面倒見てくれているが、町もすべての路線を肩代わりするのは無理だろう」と心配する。「これだけ過疎、高齢化が進めば避けられない問題だが…。へき地はどこも深刻です」。

 乗客の減少に歩調を合わせるように、車内の会話は少なくなり、ワンマン化は乗客との距離を遠ざけた。「昔は予定時間より早い時にはバスを止め、客と話し込むこともあったんだが」と福本さん。「最近では、運転手も後ろを振り向く余裕がなくなった。スピード化、効率化は時代の流れとはいえ、味気ない世の中になったものだ」。