お医者さん(中)

第2部 中村由信の世界3

住み慣れた地で最期を

肺炎で虫の息のお年寄りを往診。畳の上で最期を迎えるのが当たり前の時代、近所の人たちも駆け付けて容体を見守る(昭和36年、福山市走島)
肺炎で虫の息のお年寄りを往診。畳の上で最期を迎えるのが当たり前の時代、近所の人たちも駆け付けて容体を見守る(昭和36年、福山市走島)

 穏やかに晴れた二月上旬、詫間町の粟島で野辺の送りが営まれた。

 田中正信さん、享年九十一。「島を出とうない。最期は先生にみとってもらう」と亡くなる前日まで島の診療所に通った正信さんは、両親や妻の眠る浜の墓地に埋葬され、ふるさとの土に帰っていった。

 「おやじは幸せ者。私も息子の務めを果たせた」。長男太郎さん(65)は「塩月先生のおかげ」と目を潤ませた。

 塩月健次郎さん(77)。昭和三十一年、粟島に診療所を開いて四十四年目になる。

往診の途中、「先生、歯が痛むんじゃが」。歯科は専門外だが島では何でも屋でないと務まらない(昭和36年、走島)
往診の途中、「先生、歯が痛むんじゃが」。歯科は専門外だが島では何でも屋でないと務まらない(昭和36年、走島)

 戦後間もなく、岡山大医学部医局から村立塩江病院長に。二年勤めた後、今度は詫間町の公立病院へ。「患者と信頼関係を結べないまま病院をたらい回し。医局人事に嫌気がさした」。学生時代、衛生調査で無医村を歩いた体験も離島に一人で飛び込む下地になった。

 島は貧しかった。息絶えた赤ん坊を抱いて駆け込んできた母親。病に伏せる親のまくら元に握り飯一個を置いて漁に出る夫婦。「助かる命もみすみす奪われていく。歯ぎしりする毎日」だった。

 医者のいない島が周辺に五つもあった。定期船は小回りが利かず、船脚も遅い。借金でモーターボートを買い、往診料も取らずに巡回した。

 島外に出る機会は何度かあった。病院長に、という誘いもあったが、代わりの医師がいない。「使命感なんて大層なもんじゃないやめるにやめられず、きょうまで来た」。

 朝八時半、診療所が開くのを待ちかねてお年寄りが次々にやってきた。一番乗りの江原花枝さん(83)、いつもの元気な声に張りがない。「血圧が高うて、頭がふらふらして」。

地図

 ベッドに寝かせ、脈をとる。「上等、上等。しっかり打っとる。百まで大丈夫」。塩月さんの見立てに、花枝さんの表情がとたんに明るくなった。「先生は頭のてっぺんから足の先まで知っといてくれる。安心じゃ」。

 診察はたいていビタミン注射を一本打って終わり。余計な検査はしない。

 「みんな二十年、三十年の長い付き合い。脈と顔色で具合は分かる」。塩月さんは、厚生省が進めるコンピューターを使った遠隔医療に我慢がならない。「そんなカネがあるなら、常駐の医者を置くべきだ。患者の性格や生活習慣まで知っていないと、本当の医療はできんよ」。

定期船で志々島へ診療に向かう塩月さん(左)。顔見知りの住民と話が弾む
定期船で志々島へ診療に向かう塩月さん(左)。顔見知りの住民と話が弾む

 待合室は島一番の社交場。診療時間が終わっても、お年寄りのよもやま話は続く。話の行き着く先は決まって「お迎え」のこと。「先生がおいでるうちにポックリ死ねたら、言うことないわな」。山北悦郎さん(89)の言葉にみんな真顔で相づちを打った。

 赴任当時、三千人いた粟島の住民は今四百六十人。高齢化率が六割を超え、大半は老夫婦か独り暮らし。寝たきりになれば、島にとどまるのは難しい。「住み慣れた島で死にたい」と望みながら、町の病院や施設に移るお年寄りを塩月さんは見てきた。

 「カネと地位のある人間ほど親の面倒をみたがらない。島に限った話じゃないが…。日本はおかしな国になった」。塩月さんの目に豊かさのひずみは、いびつな家族のありようと重なって見える。