お医者さん(上)

第2部 中村由信の世界2

釣りざお片手に聴診器

釣りの手を休め、「どれどれ」と聴診器を当てる小川一三さん。軽い風邪や腹痛なら住民はまず波止にやってくる(昭和36年、福山市走島)
釣りの手を休め、「どれどれ」と聴診器を当てる小川一三さん。軽い風邪や腹痛なら住民はまず波止にやってくる(昭和36年、福山市走島)

 「ありゃ、小川先生じゃないね。懐かしい」

 広島県福山市。鞆港から走島に向かう船内で写真集を広げたらたちまち人垣ができた。「気さくなお医者さんじゃった」「いつも釣りざおをかたいで往診しちょったけえ」。

 釣り好きで人のいいおじいちゃん。小川先生は日だまりのようなぬくもりを島びとの胸に宿している。

 小川一三医師が無医村の走島で診療所を開いたのは昭和二十七年。島の世話役から懇願され、福山市内の医院をたたんだ。「下見に出かけて、船着き場で糸を垂れたら大きなチヌが三匹。お父ちゃん、とたんに気に入ってしもうて」。しぶしぶ島についていった母ヤスさんのぼやきをよく聞かされたと娘の禮子さん(71)は笑う。

釣りざおと診療かばんが必携品。いつものポイントへ急ぐ
釣りざおと診療かばんが必携品。いつものポイントへ急ぐ

 “水を得た魚”の小川さんは診療所より岸壁にいる時間が長い。島の人たちも心得たもので、風邪や軽い腹痛なら波止へ急いだ。

 「診療費は、ある時払いの催促なし。わしもずいぶん不義理した口」と村上五十六さん(64)。水揚げした魚を差し入れたら薬代は棒引きになった。「ラジオで講談が始まると診察そっちのけ。人生勉強じゃけえ、君もよう聞いとけと。仙人みたいな人じゃった」。ヤスさんは庭で野菜をつくって、おかずの足しにした。

 診療所はよろず相談所でもあった。島外から嫁いだ村上千代美さん(74)は「しゅうとめといさかいしたら行き場がない。診療所に駆け込んで、奥さんに慰めてもろうて」。夫婦のもめ事や子供の進路相談を持ち込む住民も多かった。

 写真が撮られたのは昭和三十六年春。隠居仕事のつもりが足掛け十年。島暮らしがすっかり板に付いたその秋、七十四歳の小川さんは実家の事情で島を引き揚げた。

地図

 離島医療は医者探しの歴史でもある。

 走島でも小川さんが去った後、数人の医師がやってきたが長続きせず、福山光南病院が出張診療を始めたのは昭和五十年。院長の橋本秀則さん(49)と看護婦らのチームが週三回、片道三十分の船便で島に出向いている。

 市の補助は月額二十万円。交通費であらかた消えてしまう。「そろばんはじいたら、とてもやれない。でも、待ってくれる人が島にいる。使命感? 格好よく言えばそう」と橋本さん。

 写真集の世界は遠い日の物語に映るという。「釣りざお片手の診察はのどかな時代だから許されたんでしょう。医療レベルが格段に上がり、患者の要求も厳しくなった。島だから、出張診療だから、のんびりととはいかない。シビアな時代ですから」。

「おばあちゃん、ちょっと痛いかもしれんで」。肩凝りの注射を打つ橋本秀則医師=走島診療所
「おばあちゃん、ちょっと痛いかもしれんで」。肩凝りの注射を打つ橋本秀則医師=走島診療所

 昭和三十年代、千八百人を数えた走島の人口は現在約九百六十人。若者は島を離れ、独り暮らしのお年寄りも少なくない。

 「本当は二十四時間居てほしい。安心感が違うし、なじみもできるけえ。けど、出張してくれるだけでもありがたいと思わにゃ」。五十六さんの複雑な思いは、医者の確保に難渋してきた離島住民に共通した胸の内でもある。

 走島を離れた後、小川さんは市の検診車に乗り込み、八十七歳まで現役を通した。隠居後の口癖は「わしゃ、もう生きるのに飽いた」。昭和五十四年、地域医療に寄り添った“赤ひげ先生”は九十二年の人生を眠るように閉じた。