灯台守夫婦

第2部 中村由信の世界16

不便な生活支えた誇り

二人きりで船の安全を見守り続けた河上さん夫婦。灯台は島の人も嫌がる不便な場所だった(昭和57年、高松市男木島)
二人きりで船の安全を見守り続けた河上さん夫婦。灯台は島の人も嫌がる不便な場所だった(昭和57年、高松市男木島)

 「あら懐かしい、この写真。二人ともまだ若かったなあ」

 大阪府阪南市の自宅で河上正治さん(72)と妻の繁子さん(70)は、自分たちをモデルにした中村由信の写真集を広げ、感慨深げな声をもらした。

 写真の舞台は昭和五十七年の高松市男木島。河上さんは当時、全国でも数少ない夫婦だけの「灯台守」だった。

 正治さんが海上保安官となり、灯台守生活を始めたのは昭和二十二年。二年後には、やはり灯台所長の娘だった繁子さんと結婚。以来、福井を皮切りに鳥取、長崎、大分、愛知などの灯台を巡った。

 「いろんな灯台に行ったが、二人きりだったのは男木島だけ。やっぱり『灯台守』という感じがしましたね」と河上さん。灯台があるのは島の北のはずれ。辺ぴな場所が多い灯台の中でも、とりわけ寂しい場所だった。

新鮮な魚も意外に手に入りにくいため、釣りも大切な日課(昭和57年、男木島)
新鮮な魚も意外に手に入りにくいため、釣りも大切な日課(昭和57年、男木島)

 男木島では、すべての業務を一人でこなす。灯台の保守点検、沖合の浮標の監視、そして見学者の案内。「特に霧の時が大変。こちらの情報をもとに、海上保安部が停船命令を出すので責任重大でした」と河上さん。濃霧のメッカだけに、神経をすり減らす毎日だったという。

 繁子さんの苦労も並大抵ではなかった。生活の不便さはもちろん、正治さんが出張の際は繁子さんが代役を務めた。

 「二人で出かけるのも高松への買い物くらい。泊まりがけで島を離れたことは三年間で一度もありませんでした」

 男木島灯台は、全国でも珍しい御影石造りで知られ、昭和三十二年には灯台守の生活を描いた映画「喜びも悲しみも幾歳月」(木下恵介監督)の舞台ともなった。

 灯台守の苦労と使命感。時代は移れど、主人公の佐田啓二と高峰秀子の姿は、そのまま河上さん夫妻と重なり合う。

地図

 「よく灯台に行きましたが、島の人間でも、あんなところで二人きりはイヤ。灯台守の人の生活は大変だと思いましたよ」。島で民宿を営む浜上アイ子さん(79)は当時を思い起こして言う。

 島の住民も灯台守の苦労を知るだけに、職員には親切だった。「灯台長さん、灯台長さん」と気軽に声をかけ、島の行事に招待したり、船から直接、魚を届けることもあった。

 そんな島民との関係も昭和六十二年に終わりを迎える。

 河上さん夫妻が島を離れてから四年後、男木島灯台も無人化に。機械化が進んで常駐管理も必要なくなったうえ、船のレーダーも普及し、灯台の重要性も次第に薄れてきていた。

 「昔は灯台守の子供の同級生もいて、灯台は格好の遊び場だったんですよ」。灯台周辺の管理をする福井幸雄さん(70)は、島民の生活と一体だった灯台守の存在を懐かしむ。

現在は無人化された男木島灯台。沖合は瀬戸内海のメーンストリートだ
現在は無人化された男木島灯台。沖合は瀬戸内海のメーンストリートだ

 平成六年、河上さんらが住んでいた官舎は灯台資料館に生まれ変わった。開館式典には佐田啓二の長男、中井貴一さんらとともに河上さんの姿もあった。

 あらためて見た灯台周辺の不便さに「今なら人権問題ですよ」と笑う河上さん。「でも、私がやらないとだれがやるという気持ちでしたね」と言葉を継いだ。

 厳しい環境に耐え、灯台を守り続けた使命感。それを受け継ぐ人はもういない。