タイ網の網元

第2部 中村由信の世界15

"夢"追い続け借金の山

網元の合図のもと、一斉に網を引き揚げるタイ網漁。初夏の海面には網子の威勢のいい掛け声が響いた(昭和39年、直島沖)
網元の合図のもと、一斉に網を引き揚げるタイ網漁。初夏の海面には網子の威勢のいい掛け声が響いた(昭和39年、直島沖)

 鳴門や豊予海峡を通って瀬戸内海に産卵に帰ってくるタイの群れを"一網打尽"にする縛り網漁。四月の終わりごろになると、直島の港はこの漁の準備に活気づいた。

 「晩年はほとんど取れなかったが、タイ網は父が一番輝く瞬間だった」

 中村由信の父秀太郎さんは直島で最後となった網元の一人。中村の妹、村尾由紀子さん(62)は、この時期になると渋紙色に輝いていた父の笑顔を思い出す。

 縛り網は、何千枚もの板をつけたカズラ縄で、タイを脅して一カ所に集め、それを長さ千六百メートルの網で取り囲む伝統的な漁法。繰り出す船は一網十隻。五十人ほどの網子が威勢のいい掛け声とともに一気に網を絞る。村尾さんは、金色に輝く三、四キロのタイが山のように揚がるさまをよく父から聞かされたという。

「ドンザ」と呼ばれる刺し子をまとい、「ザイ」というさい配を振る秀太郎さん(昭和39年、直島沖)
「ドンザ」と呼ばれる刺し子をまとい、「ザイ」というさい配を振る秀太郎さん(昭和39年、直島沖)

 昭和三十九年、中村のレンズは昔ながらの漁の光景を写している。あい色の刺し子姿の秀太郎さんもかつてのまま。だが、その背景にある海には、往時のような生産力はなくなっていた。

 「昔は一万匹を超えたら、紅白のもちを直島中に配って歩きよった」とは、戦後、網元の父と漁に出た兼元邦夫さん(66)。だが、兼元さん自身にそんな経験はない。

 「二十四年に一網三千匹という大漁があったが、写真のころはよくて三、四百匹。赤字をなんとかやりくりする状態だった」と兼元さん。網子の給料のほか、五十日にも及ぶ漁の間の生活費はすべて網元持ち。タイが取れないと借金だけが残った。

 「タイ網はばくちといっしょで、大漁の味が忘れられない。網元は地域で一番の分限者だったが、『ひと網とれりゃ』と夢を追い続けるうちに土地も屋敷も売りはろうてしもた」

 昭和四十年、タイ網は島から姿を消した。漁獲量の減少が主因だが、直接の引き金となったのは備讃航路の増設。

 「タイの漁場は航路の真ん中。続けようにも続けられない状況」(兼元さん)。当時、直島に三統残っていた網元は漁業補償と引き換えに海をあきらめた。

 「せめて観光タイ網の形ででも残したかったが、当時の財力ではかなわぬ夢」。兼元さんの心にはいまも悔いが残っている。

直島のノリ養殖。近年は相場が安く、昔の10倍作らないと採算に合わないという
直島のノリ養殖。近年は相場が安く、昔の10倍作らないと採算に合わないという

 タイ網の衰退と歩調を合わせるように、島はそれまでの「取る漁業」から「育てる漁業」に方向を変えた。

 「直島のタイ? いまではほとんど養殖」とは、水産会社を営む石田昌次朗さん(60)。ハマチやノリを中心に年間約五十億円の生産高を誇る直島の養殖。だが、現状は必ずしも順風満帆とはいえないという。

 「作れば作るだけ売れた時代もあったが、いまは逆に生産過剰。三十年前に比べハマチの浜値は横ばいだが、人件費は五、六倍。ノリなんか昔の十倍作らないと採算に合わない」と石田さん。

 「消費が伸びなければ、養殖業者はさらに淘汰(とうた)されるだろう。稚魚の放流などで近年、タイの数は増えてはいるが、もう網でメシが食える時代でもない」

 兼元さんはたまの休日、ストレス解消に底引き網漁に出かける。昔のタイ網を思い出すのはこんな時。

 「いまでもええタイがおるんじゃろうけど…。もうできんわな」。備讃航路を行き交う大型船を見ながら大きくため息をついた。