漁業組合長

第2部 中村由信の世界14

島の将来見据えて奔走

獲るばかりでなく、将来への投資も必要。組合長みずからタコの産卵用にタコつぼを投げ入れる(昭和37年、丸亀市小手島沖)
獲るばかりでなく、将来への投資も必要。組合長みずからタコの産卵用にタコつぼを投げ入れる(昭和37年、丸亀市小手島沖)

 「へき地の組合がええと言うてなあ。それでうちの島に来たんじゃ」

 丸亀市沖の小手島に中村由信が撮影に訪れたのは昭和三十七年。漁業組合長だった小見山輝之祐さん(85)は、その時のことを今も覚えている。

 当時は、養殖ブームの先駆け。中村が残したフィルムには、島に養殖を導入しようと奔走する小見山さんの姿がくっきりと焼き付いている。

 小手島は周囲三・八キロ、当時の人口は約二百八十人。漁業者がほとんどで、タコ縄やイカナゴ漁で生計を立てていた。

 小さな島とあって、組合長は島の名士。「何か相談ごとがあると、みんなうちに集まって来たわ」と小見山さん。職員もおらず、組合長の自宅が事務所代わりだった。

 当時、組合の懸案だったのが養殖事業への着手。「魚が獲れなくなったわけじゃない。東讃でぼつぼつ養殖が始まって、それが成功しとると聞いてな」と小見山さんは振り返る。

「今年もイカナゴはよくないなあ」。不漁続きに富田組合長(右)の顔色もさえない=小手島
「今年もイカナゴはよくないなあ」。不漁続きに富田組合長(右)の顔色もさえない=小手島

 設備投資などに多額の費用がかかるだけに、先進地の視察だけでなく、県や県信漁連などへの陳情も繰り返した。

 当時は定期船の便数も少なく、丸亀に行くのも自分の漁船がほとんど。「帰りに海が荒れると漁船を途中の島に泊め、定期船を待って帰ったこともある」(小見山さん)。

 組合長の奔走によって一時はハマチ養殖も試みられたが、結局、島で養殖は定着しなかった。それだけ漁業が好調な土地柄だった。

 周辺の島と比べて人口減が少なく、比較的「元気な島」だった小手島も現在、大きな変化の波に飲み込まれようとしている。

 その波とは、漁協の合併問題。現組合長の富田良一さん(68)は「もうこの島だけではやっていけん。周辺の島の組合と一緒にならねば」と打ち明ける。

地図

 最大の理由は「海砂補償の打ち切り」。海砂採取を許可する見返りに、業者から受け取っていた多額の補償金。この定期収入が採取の全面禁止に伴い、十七年度からストップする。

 中讃の漁協の多くがこの補償金によって運営費をまかない、組合員に配当もしていた。

 小手島も同様で、「これまでやってこられたのも海砂の補償があったからこそ」と富田さん。現在の組合員は二十六人。他の島に比べて若者が多いとはいえ、漁業の現状を考えると単独での存続は難しいという。

 富田さんは月に二、三回は丸亀などに出かけ、本島や広島の漁協と協議を続けている。合併のめどは十三年春。だが「将来的には丸亀や中讃での合併も考えていかねば」。さらなる合理化も視野に入れている。

船の進水式でモチを投げる小見山さん(左)。組合長は島の名士だった(昭和37年、小手島)
船の進水式でモチを投げる小見山さん(左)。組合長は島の名士だった(昭和37年、小手島)

 合併後の拠点は本島に置かれる予定で、小手島から組合はなくなってしまう。

 「やっぱり不便。これまでのように小手島だけで自由にはできないし」。組合で最も若い小見山泰一さん(28)らは不安や寂しさを隠しきれない。

 「漁業の将来を考えると頭が痛い。でもなんとかせにゃあ」と活性化を模索する富田さん。漁業者のために奔走する組合長の姿は昔も今も変らない。

 だが、漁業の衰退とともに、その存在自体も島から消えようとしている。