産婆さん

第2部 中村由信の世界13

取り上げた赤ん坊6000人

昔は自宅出産が当たり前。激しい陣痛に呼吸を合わせるコツは、長年の経験がものをいう(昭和33年、直島)
昔は自宅出産が当たり前。激しい陣痛に呼吸を合わせるコツは、長年の経験がものをいう(昭和33年、直島)

 「この産婆さんは堀内さんといってね。島におる年配の人はたいてい世話になったものです」。親子二代にわたり子供を取り上げてもらった秋山津多子さん(70)は、記憶をたどりながら懐かしそうに言葉を続けた。

 「育児相談から家庭の困り事まで。島の女性にとっては母親同然の存在。精神的な支えやった」

 写真の人物は堀内はるよさん。岡山の看護学校を卒業後、大正九年に直島に。一時、製錬所病院に勤めたが、産まれたての赤ん坊を汚れたボロ布でくるんでいた島の現状に驚き、産婆として生きる道を選んだ。

「どれ、大きくなったかな」。はかりにつるして赤ちゃんの成長をチェック(昭和33年、直島)
「どれ、大きくなったかな」。はかりにつるして赤ちゃんの成長をチェック(昭和33年、直島)

 当時、お産といえばほとんどが自宅出産。産婆さんの腕以外、病院のような特別な設備があるわけではなかったが「いつでも来てくれる安心感があった」と、秋山さんは振り返る。

 血圧計や聴診器など、白いふろしきで包んだ七つ道具を自転車にくくり、昼夜を問わず狭い直島を東奔西走。迎えがあれば周辺の島々にも出かけた。

 貧しさから出産さえもためらわれた時代。金のない家には、自分の着物で作ったおしめや産着を持参した。「そんな心配せんでいい」。金の代わりに魚を持ってきた漁師にほほ笑み返す。息子の信之さん(63)は母の仕事ぶりを語るとき、いつもこんな光景を思い出す。

 昭和四十年に亡くなるまで、取り上げた子供は六千人に上る。お産がないときは、事務所に使っていた自宅の三畳間が診療所に早変わり。「先生ころんだ」といって傷に赤チンを塗ってもらう子供、熱がある子を抱え駆け込んでくる母親。「六千人も取り上げたんだから、島の子供はみんなわが子のようなもんだったんでしょ」

 写真が撮られた三十三年ごろは、島の産婆さんが最後の輝きを放っていた時代でもある。三十五年を過ぎると島でも病院出産が増えだし、いつしか島の産婆さんは姿を消した。現在、県内で産婦人科がある島は小豆島だけになっている。

 「出生数の減少もあるが、昭和四十一年の母子保健法施行が大きな節目。それまで生活の一部だったお産が医療に取り込まれた」。日本助産婦会の前県支部長で高松市内で助産院を開く平野艶子さん(78)は島からお産が減った経緯を説明する。

年間1000人を超える赤ちゃんが誕生する高松赤十字病院。直島や小豆島からもお産に訪れる
年間1000人を超える赤ちゃんが誕生する高松赤十字病院。直島や小豆島からもお産に訪れる

 県内で最も出産件数が多い高松赤十字病院。昨年は小豆島や男木島、直島から十人が出産に訪れた。子供の急病に、夜中、海上タクシーで飛び込んでくる島の母親も多い。

 「助産婦にとって、妊婦や地域との密接なかかわりの中で仕事ができる産婆さんは一度はあこがれる職業」とは、同病院の助産婦、牧野千鶴さん(28)=池田町出身=。だが、そんな牧野さんも一昨年、男児を出産した際、選んだのは街中の病院だった。

 「万が一のことを考えると、小児科のある大きな病院の方がね。うーん、やっぱり安心感ですかね」

 医療の高度化、豊かさの変化の中で、姿を変えた安心の形。幸い直島には製錬所病院があったが、島で出産していたのは五十年代まで。よりよい設備の病院を求めて高松や玉野に出て行った。

 「自宅ほど落ち着いて産める所はないんですがね…」と平野さん。今、家庭での自然ぶんべんが見直されているが、島にはもうその担い手はいない。