漁師の子(3)

第2部 中村由信の世界11

おやじの背中遠ざかる

船が帰ってくると、子供たちも総出ではえ縄の手入れ。次の出漁までつかの間の家族だんらん(昭和39年、坂出市瀬居島)
船が帰ってくると、子供たちも総出ではえ縄の手入れ。次の出漁までつかの間の家族だんらん(昭和39年、坂出市瀬居島)

 「たまには一緒にやらんか」。春休みの午後、久保義夫さんは長男知司君(13)を竹浦の波止に誘った。

 底引きの網を広げ、損耗防止用のテープを巻き付けていく。「ちいとも進歩しとらんなあ」。知司君のおぼつかない手つきを冷やかしながら、久しぶりの共同作業に久保さんの顔がほころんだ。

 一家総出の網づくろい、井戸端で皿を洗う兄弟―。写真集の「漁師の子」には寄り添う家族の風景が納まっている。名うてのわんぱく少年もここでは殊勝な孝行息子だ。

両親の留守、兄弟で手分けして晩ごはんの準備(昭和39年、瀬居島)
両親の留守、兄弟で手分けして晩ごはんの準備(昭和39年、瀬居島)

 「はえ縄が盛んなころは、みんなこう。子供も立派な働き手やった」と竹浦の馬場明寿さん(67)。船と網の操作が同時進行するはえ縄漁は最低二人の労力が要る。瀬居ではたいてい夫婦で乗り込んだ。県外出漁も珍しくない。子供たちは炊事や洗濯を手分けして家を守り、船が帰ってきたら縄の針を付け替える。近場の海なら漁を手伝った。

 そんな光景が当たり前でなくなるのは昭和四十年代半ば。底引き漁が定着した時期と重なり合う。

 底引きはそもそも回遊魚の減少で台頭した漁法の一つだが、一気に主流になったのは「男一人で作業をこなせるから」(馬場さん)。「女房は家におれる。子供に寂しい思いをさせんですむし、勉強もみてやれる。みんな飛びついた」。隣近所に番の州企業のサラリーマンが増え、漁師も子女の教育とマイホームパパを意識し始めていた。

 “夫婦共漁”は影を潜め、子供たちは海と家事から遠ざかった。農作業の機械化が子供の出番を奪ったのとよく似た構図が見てとれる。

底引き網を補修する久保義夫さん父子。「一緒にやるのは何年ぶりかなあ」=瀬居島・竹浦
底引き網を補修する久保義夫さん父子。「一緒にやるのは何年ぶりかなあ」=瀬居島・竹浦

 竹浦でただ一人、はえ縄漁を受け継ぐ佐野安吉さん(69)は五年前、漁船同士の衝突事故で妻を亡くした。長年、海で苦楽を共にしてきた連れ合いの死。目の前が真っ暗になった。

 「僕がばあちゃんの代わりになる」。沈み込む佐野さんを励ました孫の純也君(16)は当時小学六年。物心つくころには船が遊び場で「見よう見まねで漁を手伝ってきたからすぐになじめた」。学校が終わると家に駆け戻り、夜の海へ。水産高校に進んだ今も二人三脚の漁が続く。

 「なかなか筋がええ」と目を細める佐野さんだが、手放しというわけにもいかない。会社勤めの娘夫婦は一人息子が漁師になるのに大反対。漁業の厳しさを知り抜く佐野さんは「孫を後継ぎに」と言い出しかねている。

 父から子へ、子から孫へ。技術と知恵を連綿と伝えてきた漁師の世界も、漁法の近代化で様変わりした。親にたたき込まれた「やま(漁場)」の位置は人工衛星の画像が教えてくれる。網も統一規格になって、目の大きさや素材に工夫を施す余地は薄れた。

 「でも、一番大事な部分は変わらん」と久保さんは言う。「どれだけおやじの背中を見て育ち、海に愛着を持てるかや。小さいころから海を身近に感じてないと漁師になるのは難しい」

 底引き一本の久保さんは今、働く姿を子供に見せる機会がほとんどない。代々続いた漁師の系譜も「僕限り」、そう覚悟してはいても「息子には背中を見といてほしい」と思う。

 そんな父の胸中を知ってか知らずか、知司君は「将来? そんなん分からん」と屈託がない。