漁師の子(2)

第2部 中村由信の世界10

海に戻れと血が騒いだ

イモ畑でチャンバラごっこ。この年始まった番の州の埋め立てで前面の海は消え、沙弥島(後方)も地続きに(昭和39年、坂出市瀬居島
イモ畑でチャンバラごっこ。この年始まった番の州の埋め立てで前面の海は消え、沙弥島(後方)も地続きに(昭和39年、坂出市瀬居島

 瀬居の竹浦漁港から約三十分。船が備讃航路を横切ったあたりで久保義夫さん(45)はエンジンの出力を絞った。

 「潮が悪いけど、引いてみるか」。底引きの網を降ろし、ゆっくり船を走らせながら、たばこを一服。煙の向こうに番の州の工場群が見える。若いころに思いがさかのぼるのは、こんな時。「ずっと勤めとったら、人生どうやったやろ」。

 昭和四十三年九月、番の州の埋め立てが終わり、瀬居島は地続きになった。県内初のコンビナートは、よそごとだった「高度成長」をいきなり足元に連れてくる。漁師の子弟は立地企業に優先雇用され、京阪神に出ていた二男、三男も次々にUターンしてきた。

 「みんな就職。僕も背中を押されるように」。漁師の長男の久保さんは工業高校から電気専門校に進み、番の州の化学メーカーへ。配電盤の設計を担当した。

砂浜で遊ぶ腕白少年たち。この遠浅海岸もほとんど土の下に埋まった(昭和39年、瀬居島)
砂浜で遊ぶ腕白少年たち。この遠浅海岸もほとんど土の下に埋まった(昭和39年、瀬居島)

 辞表を出したのは三年後。会社勤めになじめなかったわけではない。「なぜか海に血が騒いで」。二十三歳の一大決心だった。

 沈着な読みもあった。瀬戸大橋の漁業補償で瀬居はにわか景気に沸いていた。「一戸前、八百万から一千万円。新造船が一隻買えた」と同じ竹浦の山本寿春さん(64)。木造船があっという間に消え、強化プラスチック(FRP)船が波止に並んだ。最新機器を備えた船なら手作業の重労働から解放され、効率もいい。「やっていける」と久保さんは踏んだ。

 父の力さん(69)は息子の決断に慌てた。「漁師には嫁の来手がない。早まるなと怒鳴りつけた」が、「正直言うとうれしゅうて。後継ぎはもうあきらめとったから」。三年後、久保さんは地元から妻を迎え、父の心配は杞(き)憂に終わる。

地図

 しばらくは順風満帆。二十七歳で自分の船を持ち“独立”した。風向きが変わったのは平成に入ってから。水揚げ量が目立って落ちた。「バブルがはじけてからは、値もさっぱり」。いいころの半値に張り付いたままだ。

 「漁はもともとばくちみたいなもの。当たれば山は高いけど、谷も深い」。トラフグの大漁で一晩で五十万円稼いだことがあるが、船の油代さえ出ないことも珍しくない。

 高校生の娘二人に中学生の息子が一人。教育費がかさみ、船のローンも抱えている。「会社勤めなら収入も安定してたのにね」と妻三枝子さん(44)。冗談半分と分かっていても、妻のため息に胃が痛む。

漁師になって22年。「生き物が相手。あくせくしてもしようがない」と笑う久保義夫さん=瀬居沖
漁師になって22年。「生き物が相手。あくせくしてもしようがない」と笑う久保義夫さん=瀬居沖

 それでも最近、「そこそこ食べていければ」と思うようになった。中学の同級生二十一人のうち、漁師は久保さんだけ。ほとんどがサラリーマンで、そろそろ管理職の世代。リストラが飲み会の話題になる。「上の顔色を見んでもすむし、失業もない。漁師がうらやましい」と愚痴る幼友達に「これでも苦労しとんじゃ」と言い返しながら「世の中変わったな」と思う。

 「やっぱりあかんわ」。巻き上げた網に魚の影が見えない。久保さんは首をすくめたが、白い歯がのぞいている。

 「相手は生き物。こっちの思い通りにはならん。あしたはあしたの風が吹く」。久保さんは「あんまり大風が吹いたら、漁に出れんけどな」と豪快に笑った。