流転

第1部 塩飽の海人たち9

開拓、戦乱そして沈没

 新調の帆いっぱいに風を受けて、咸臨丸は日本を目指している。

 往路と打って変わった好天続き。経験を積んだ水夫らは自信に満ちた表情で船を操り、万一に備えて乗艦を頼んだ五人の米国人船員も出る幕はなかった。

 浦賀入港は六月二十二日。太平洋横断の壮図を果たして帰った咸臨丸を待ち受けていたのはしかし、熱狂的な歓迎とはほど遠い、騒然とした世情だった。

帰国した咸臨丸を待っていたのは太平洋の荒波より激しい流転の運命だった(写真は長崎ハウステンボスの咸臨丸)
帰国した咸臨丸を待っていたのは太平洋の荒波より激しい流転の運命だった(写真は長崎ハウステンボスの咸臨丸)

 大老・井伊直弼が桜田門外で暗殺されたのは、咸臨丸帰港の二カ月前。開国通商の機運は一変、攘夷(じょうい)のあらしが吹き荒れていた。

 <サンフランシスコ土産の傘は家の中で眺めるだけにしようと士官連中で決めた>(福翁自伝)。アメリカで得た知識を披露するどころか、咸臨丸の名を口にすることさえはばかられるありさま。恩賞は半年後の十二月、正使一行の帰着を待って行われたが、形ばかりで咸臨丸の成功に幕府は冷ややかだった。

 神奈川の警衛にあたっていた咸臨丸に小笠原諸島行きが命じられたのは二年後の一八六二(文久二)年。度重なる外国人の占拠にたまりかねた幕府は巡視と開拓・定住を計画。咸臨丸、朝陽丸、千秋丸の三隻を派遣した。太平洋を渡った水夫のうち石川政太郎、向井仁助ら二十二人が三艦に分乗。荒波にもまれ、操船は難渋を極めたが、巡検使や移住者の輸送任務を無事果たした。

 この小笠原航海に加わった塩飽水夫は先の二十二人を含め百二十七人に上っている。

 一八六七(慶応三)年、大政を奉還して徳川幕府は瓦解。その後の動乱に巻き込まれ、咸臨丸も悲惨な末路をたどることになる。

 主戦派の榎本武揚に率いられた海軍は翌年九月、北海道に脱走を企てた。既に老朽化が著しく自力航行の能力を失っていた咸臨丸も他の艦船にえい航されて品川を出たが、すぐ台風に遭い、漂流。転覆を免れるためメーンマストを切り倒し、静岡・清水港に逃げ込んだ。

 官軍の追撃は激しく、白旗を掲げた咸臨丸乗員のほとんどを殺害。塩飽水夫も犠牲になったといわれているが、その数や氏名は定かでない。

 遺体は海に投げ込まれたまま放置され、官軍の威光を恐れてだれも弔おうとしなかった。見かねて立ち上がったのが清水次郎長(山本長五郎)。「主家のために戦い、亡くなった人を見捨てられるか」とねんごろに埋葬している。咸臨丸の悲痛な晩年の中でただ一つ、ぬくもりを感じさせるエピソードだ。

 官軍に捕獲された咸臨丸は蒸気機関を外され、ただの帆船に。だが、老残の身にまだ引退は許されなかった。翌年、北海道開拓使の手に移り、物資の輸送に従事。さらに回漕業者に払い下げられた。

 流転の航跡にピリオドを打ったのは一八七一(明治四)年九月。仙台からの移民団を輸送中、函館湾沖で暴風雨に遭い沈没、と北海道誌は伝えている。

 「咸臨丸ほど栄光と没落の落差を感じさせる船はありません」と、元北海道新聞記者の作家合田一道さん(66)=札幌市=。祖父が豊浜町出身。讃岐男の血を引く合田さんは十数年前から咸臨丸の事績を調べ、船体の引き揚げを呼び掛けている。「空撮で船影らしきものも見つかっている。歴史に名を刻んだ艦船として保存されるべきで、海底にむくろをさらしているのは哀れとしか言いようがない」。

 幕末維新の動乱にほんろうされ、流転を重ねた咸臨丸。太平洋渡航の一翼を担った塩飽水夫たちの後半生もまた平板ではない。ある者は果敢に自らの運命を切り開き、ある者は変転する歴史の荒波にのみ込まれていった。