新しい国

第1部 塩飽の海人たち8

分け隔てなく開放的

 <休日。所々を見物に行く>。メア・アイランド滞在中の石川政太郎の日記にこんな記述が数カ所残っている。<素足に草履、麦わら帽の日本人を毎日のように見かける>(バレホ市史)ともあり、修理作業の息抜きに、水夫たちは対岸バレホの街をよく散策したらしい。

 時には士官と連れ立って定期船でサンフランシスコまで足を延ばすこともあった。長崎の火夫嘉八がこの船内で食事をした時<日本人から代金はとれないと、ごちそうしてくれた>と得意げに書いている。

サンフランシスコで撮影された向井仁助(塩飽広島)の写真。当時の水夫の服装を知る貴重な資料(史跡塩飽勤番所所蔵)
サンフランシスコで撮影された向井仁助(塩飽広島)の写真。当時の水夫の服装を知る貴重な資料(史跡塩飽勤番所所蔵)

 四十日近くに及んだメア・アイランドでの生活。咸臨丸乗員の目に異邦人はどう映ったのだろうか。

 印象記に共通しているのは、「あけっぴろげで親切」な米国人への共感だ。

 造船所ではすべてがオープンにされた。勝海舟は、設備を自由に見聞させたうえ、修理の手順と内容についても日本側に報告と相談を欠かさない姿勢に感じ入っている。士官・小野友五郎の日記をみると、オランダ語ばかりだった船舶用語に、英語が日を追って増えている。手取り足取りで教えてくれる米国人技師の感化だろう。

 海員病院に入院した水夫たちは、分け隔てのない手厚い看護に一様に感激を隠していない。

 従者・長尾幸作の日記。<新しい国だけに、みな正直で親密。真情がある。その点、旧国アジアは、うわべだけで他人に対して薄情だ。米国人は夷人(いじん)といっても、アジア人に勝る>。

 率直に親しみの感情を表し、しかもその応対は相手の身分に関係がない―。強固な階級社会しか知らない幸作には、「一視同仁」が言葉だけに終わっていない社会が驚きだった。水夫たちの目に、それはもっと新鮮に映ったに違いない。

 「外国人に対する偏見を払ったのは、新しい技術の発見以上に咸臨丸の大きな収穫だったかもしれない」。カリフォルニア大サンディエゴ校のマサオ・ミヨシ教授(日欧交流史)は「日本の関心はすぐにヨーロッパに向かってしまうが、米国の好印象が積極的な西洋文明の移入につながった」とみている。

海軍造船所百年史を手に「咸臨丸の脱走青年」について話す司書ルーシーさん=バレホ海軍歴史博物館
海軍造船所百年史を手に「咸臨丸の脱走青年」について話す司書ルーシーさん=バレホ海軍歴史博物館

 「米国に残った若者がいるよ」。バレホ海軍歴史博物館の資料室。司書のトマス・ルーシーさん(79)は書棚から分厚い本を抜き出した。「ロング・ライン・オブ・シップス」と題する海軍造船所百年史の中に咸臨丸の“脱走青年”のエピソードが載っている。

 <帰国が近づいたある日、一人の日本人がドックの機関室に現れ、アメリカにとどまりたいと手まねで頼む。技師が『ここは自由の国だから』とボイラーの上にかくまい、サンドイッチを与えた。咸臨丸の出航後、青年は幸運を探すためどこかへ消えていった>

 日本側の文献にはこの記録が見当たらない。

 塩飽本島出身の郷土史家真木信夫の「咸臨丸と讃岐」(昭和三十五年刊)に<乗組員九十六人中、三人の名は不明>とあり、“脱走”が事実とすれば、おそらくそのうちの一人なのだろう。

 滞在中の親切に触発されたせいなのか、最初から海外雄飛の密航が目的だったのか。動機もその後の足取りも確かめようがないが、“アメリカン・ドリーム”を追った日本人第一号といえるかもしれない。

 五月一日、修理を終えた咸臨丸は見違えるような姿でメア・アイランドを離れた。造船所長官は「米国政府の好意」と修理費二万五千ドルの受け取りを固辞。日本側はこの一部を船員の未亡人団体に寄付している。

 五月八日、咸臨丸は祝砲に送られサンフランシスコを出航、帰国の途についた。